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0661 日本史特講T

2010年度 科目修得試験 2時限目

[履歴]
2010.04.12 新規作成


[試験範囲]

第1回 第2回 第3回 第4回
H22 --- --- ---
H21 --- ---
H20
H19
H18 --- ---




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日本史特講T

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平成22年度
第1回
2時限目

■中国人の日本観と日本研究の歴史的推移について述べよ。



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平成21年度
第1回
2時限目

■日本とアフリカの関係について、歴史的推移を述べよ。


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平成21年度
第2回
2時限目

■日本古代の官司で活動する人々について、階層を区分して説明しなさい。
p.3〜p.まで

官人制は律令制支配を支える大きな支柱の一つであった。

位階も五位以上の貴族官人と六位以下の中・下級官人との間に
歴然たる差があった。
また、内位と外位との間にも大きな格差があった。
各階層の官人は、蔭位の制や位子の制などによって、同一階層内で
再生産される仕組みになっていた。

八・九世紀の律令制下で有力農民や一般農民が下級官人の身分を獲得
する動きがあった。
農民の官人身分獲得の動きは、浮浪や得度と並べて課役忌避の一手段
であったことが多い。
ただし、課役忌避の面から見るのは不適切である。
なぜならば、白丁から官人身分を獲得した人々の中にその後も官人として
活躍する者がいたためである。

律令制下で農民が位階を得るには、いくつか方法がある。
第一に京へ出仕し、在京諸司の下級官人、帳内・資人となり、考課を積む方法である。
第二に範囲が国博士、医師、郡司、軍毅など限定されるが地方官衙に出仕して
位階を得る方法である。
第三に蓄銭、財物貢献、戦争武勲、祥瑞を得るなど格別な功績があって、
叙位される方法である。

官人の任用について、全てを令が規定しているわけではない。
しかし、八・九世紀において各種の下級官人に白丁から任用されていた
ことは史料から知ることができる。

舎人は九世紀初めまでにその任用について基準が設けられた。
大舎人は795年に蔭子孫・位子に任用を限った。
806年には蔭子孫に限定された。
東宮舎人は蔭子孫・位子に任用を限定していたが、その後、白丁からの
任用を認めている。
さらに812年には外位からの任用が公認された。
皇后宮職舎人も白丁の任用が認められている。
中宮舎人も時期は不明だが、白丁、外位の任用が認められている。

九世紀後半に特に顕著となる各地での下級官人身分保有者の増大の中心は、
衛府の舎人であり、白丁から衛府の舎人となる者が多かった。

伴部は負名氏入色者からの任用が原則であったが、白丁、品部・雑戸からの
任用もあった。

以上のように諸々の下級官人には白丁から任用される者が多くあり、
それを通じて農民が下級官人身分を獲得していったのである。

位子の出身は、内六〜八位の嫡子で二十一歳以上の無役任者は、
@京国官司(京職・国司)の勘検・簡試
A式部・兵部省の簡試・試練を経る。
B大舎人・兵衛・使部等に補す。
という段階をたどる。

位子とはより厳密にAからBへの途中の段階にあるものを指す。
そのため、内六〜八位の嫡子全てが該当するわけではない。

位子を経て出身する者は、京職・国司から貢進されて式部・兵部省
に把握され、位子という官人身分を獲得し、その後、諸司に配属される
という経路をたどった。


日本古代の官途に就く道は、多くの場合、舎人から始まる。
無為の舎人として考課を受けて初めて叙される位階は、
番上の舎人の一回の選による。
昇進の位階は最大でも三段あり、蔭位を得る者を除けば、ほぼ全て初位であった。


舎人からの昇進コースは、蔭子孫はただちに判官官人に任じられた。
位子や白丁出身者は、舎人→史生→主典級官人と進み、途中で散位となる者が
多かった。
史生は基本的に舎人から昇進すべき地位として位置づけられていた。

下級官人の再生産方式である位子の制度が八位以上を対象として初位を
除外していることは、この制度が基本的に職事官を同一階層内で
再生産するための方式であったことを示す。

正倉院文書の大半は写経事業関係のものであり、それに従事する写経生には、
諸司の下級官人と一般の庶人とがあった。
庶人は白丁や里人と身分が表示されている史料がある。

一般的に官人身分を持つ者は、村落内の有力層と考えられるが、官人出身が
多い村落では、必ずしも官人身分だけで有力層とはならない。
ただし、官人となるからには、文字を習得していることが必須条件であるため、
有る程度の裕福層である可能性が高い。


下級官人は在地の農業経営から完全に分離しておらず、農繁期には、農村に
戻って農業経営に従事した。

「入色者は官に仕える心無し」と言われ、すでに官人身分を持つ「入色者」
(特に蔭子孫、位子)は、官職に就くことを望まなくなっていた。

このように官人身分の者が官司への出仕を忌避すると各官司では必要に応じて
新たに下級官人を補充しなければならなかった。
白丁からの任用がさらに増えたのである。
白丁にとって、低下した待遇であっても、出仕することで官人身分を得て、
課役免除の権利を得る可能性があるため、官人身分の者よりも官司出仕の利益
は大きかった。


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平成21年度
第3回
2時限目

■室町期の守護権力による領国支配の特徴と国衙機構及び守護所との
関連について述べなさい。
Yahoo!百科事典 検索:守護領国制  を参照。

守護として領国支配の拠点となった守護所がどこにあったのかが重要となる。
上総国の行政組織の中核に位置していた上総国国衙機構は、鎌倉・室町期を
通じて守護権力とどのような相関関係を持っていたのか。

国衙権力と守護権力との関連性が指摘できる。

鎌倉期の守護所が国衙の近辺に存在し、守護領も国衙近辺の国衙領を中心に
周囲に分布していた。

鎌倉期の守護領は国府近辺の国衙領を中核として、集中的に分布し、
室町期の守護が、在来の地方行政機関であった国衙機構を支配することで、
容易にその地域の支配体制を構築できたのである。

鎌倉幕府が当時なお一国全体の支配機構を維持していた国衙在庁の権限を
吸収することで幕府権力の支配の浸透を図った。

守護領が国府近辺に集中し、在来の国衙機構を介して守護権力の支配体制が
構築された。

「郡」単位の国衙在庁機能は形骸化しておらず、その機能を十分に果たしていた
存在であった。


守護領国制は、それまで地域を治めていた荘園制を否定するものではなく、
その原理的秩序を維持し、踏襲する形で領国支配を行った。
国人領主を守護所へ出仕させるようにし、守護の被官とすることで、
さらに領国経営を安定したものとしていった。

室町期の守護は、大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)に加え、
使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)、
半済預置権(はんぜいあずけおきけん)、
段銭等徴収権(たんせんとうちょうしゅうけん)、
闕所地処理権(けっしょちしょりけん)などを
獲得し、領国支配を展開した。
守護が一国支配における伝統的行政組織であった国衙機構を
目代以下の守護代化、被官化などによって、包摂していく方法を取った。

大田文をも掌握した守護は、一国全体の領主・所領の状況を掌握する
こととなり、幕府権力を背景として公権力を発動させ、守護独自の
課役を実施する手段となった。


大田文(おおたぶみ) [ 日本大百科全書(小学館) ]
.鎌倉時代を中心に作成された一国ごとの国内の公領・
荘園(しょうえん)の田積(でんせき)、領有関係を記した文書。
田文(たぶみ)、田数帳(でんすうちょう)、田数目録、
作田惣勘文(さくでんそうかんもん)、図田帳(ずでんちょう)など
ともいう。
なお、郡、郷、名(みょう)単位、荘園単位の田積、
領有関係を記したものも大田文、田文とよばれている。
国の大田文として現存しているのは21種、うちほぼ完全な形で
残っているのは、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、
薩摩(さつま)、豊後(ぶんご)、能登(のと)、石見(いわみ)、
淡路、若狭(わかさ)、常陸(ひたち)(2種)、但馬(たじま)、
肥前、丹後(たんご)国の13種である。
記載内容から分類すると、A型―国内国衙(こくが)領、荘園の
すべての田積を記すもの、A′型―同じく田積さらに国衙領の
応輸田(おうゆでん)の所当米(しょとうまい)を記すもの、
B型―同じく田積さらに領有関係、とくに地頭の氏名を記す
もののおよそ3種がある。記載方式の差異は作成目的、作成主体者に
よるものであり、A型は一国平均役(いっこくへいきんやく)の
基礎資料、A′型は国衙の歳入・歳出を確定する予算書的なもの、
B型は地頭補任(じとうぶにん)の確認および御家人(ごけにん)
役賦課のための台帳と考えられ、A、A′型は国衙の在庁官人が
国衙に整理、保存されていた台帳類から作成し、B型は守護が、
在庁官人はもちろん御家人や各荘、郷、保に報告を求め作成した
とみられる。
鎌倉時代以降も一国平均役、段銭(たんせん)賦課の台帳として重視された。


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平成20年度
第1回
2時限目

■日本とアフリカの関係について、知るところを述べなさい。

p.321〜p.332まで
日本とアフリカの関わりは、安土桃山時代から求めることができる。
1548年ポルトガル人船長ジョルジ・アルバレスはフランシスコ・ザビエル
宛てに手紙を書いているがその中に「日本人は黒人特にモザンビークから
来たカファヤ人を観ることを悦び」云々とある。
カファヤ人とは東アフリカに住む人々らしい。
日本に火縄銃が伝来してからわずか5年ほどで日本とアフリカの関係が
生じている。
イタリア人宣教師オルガンティーノは、1577年の書簡で日本人は、
「極めて新奇なことを喜ぶ。もし都にエチオピアの奴隷が来るならば、
人はお金を払ってでも観ることだろう」とある。
イエズス会の布教活動として、人集めにアフリカ黒人を利用したことを
伺わせる史料である。

日本側の文献で最初に黒人が登場するのは、1600年頃に太田牛一がまとめた
『信長公記』である。
イタリア人巡察師アレッサンドロ・バリニャーノが1581年に上洛した際、
従者として黒人を連れてきた。
「キリシタン国より黒坊主参る。年のころ十六、身の黒きこと、牛の如し。
健やかにして器量よし。力は十人前」と記されている。
信長は黒人を気に入り、熱心に黒人に質問をしていたとある。

『天正年間遣欧使節見聞対話録』の中で黒人が商人の奴隷である
ことが記されている。

1596年に起きたサン・フェリペ号事件では、船内に多数の黒人がいたことを
『土佐軍記』や『太閤記』などで伝えられている。
天正少年使節団が欧州からの帰路でモザンビークに六ヶ月ほど滞在した
ことがあり、そこで使節団のひとり千々石ミゲルは同地の様子を
主たる住民はポルトガル人であることを記している。アフリカの土着の民は、
無能、粗野で教養もなく野蛮であるからと理由を述べている。

安土桃山時代の南蛮屏風には多数の黒人が描かれている。

江戸時代に出された世界地図は、現在のアフリカ大陸とほぼ同じ形に
描かれており、これは西洋人のアフリカ探検の成果が日本まで伝わっていた
ことを物語る物である。


日本とアフリカの関係がそれから長い江戸幕府による鎖国によって、
進展がなかったが、幕末になると新たな展開が再開された。
1862年に幕府が江戸、大坂、兵庫、新潟の四港の海港延期を西欧諸国に
伝えるため派遣した使節がエジプトの地に降り立った。
帯刀した武士がピラミッドの前でポーズを取った写真がいまも残る。

しかし、当時の日本はアフリカについて知識が乏しく、内地は船の往来
がなく、海岸を西欧人が探索したのみと分かり、アフリカ大陸を「暗黒大陸」
とイメージさせるに至る。

その後も、日本人のアフリカ知識は、エジプトのみに限られてしまう。
1867年に条約改正の交渉のため欧米を巡回した岩倉使節団は、帰途でエジプトに
立ち寄った。その時、出逢ったエジプト住民について記録が残る。

日本における本格的なアフリカ紹介は、1890年代前半からである。
東海散士は『埃及近世史』(1889年)を著し、西洋人の記録を参考にしながら、
自らの見聞を交えて、エジプトの歴史と現状を紹介した。
この著では、末尾で西洋人によるエジプト支配を批判している。

1895年、日本は日清戦争に勝利し、日本は台湾を統治した。
統治の参考のため、西欧諸国の植民地経営を研究した。
1898年に西欧諸国の植民地経営の理念や実施経験の書籍の
翻訳が相次いで成された。ドラネッソン著・台湾事務局訳『仏領支那印度拓殖誌・
馬多加須加兒植民論』、ルーカス著・台湾総督府文書課訳『英国植民志』、
貴族院事務局訳『仏国新領地アルジェリニ於ケル行政』である。
この翻訳でフランスのマダカスカルやアルジェリアに対する政策が紹介された。

1899年に日本最初のアフリカ論となる『亜非利加之前途』という二十一頁の
小冊子が刊行された。
著者は日露戦争の際に対外強硬論を唱えた戸水寛人である。
西欧列強はアフリカで派遣を争い、鉄道敷設や資源獲得を行っている。
日本がいまアフリカに進出しなければ、白人たちに利する所を占有されてしまう
と帝国主義に視点から危機感を募らせる内容を記した。

1896年から1902年にかけて南アフリカでボーア戦争が起きた。
この戦争は当時の日本で関心を集め、新聞など報道も盛んに行われた。
日本人はこの戦争を通じて初めて南アフリカの歴史と現状を知ることになった。
イギリス人に反抗するアフリカ人を日本は好感を持った。
それは、世界の大国にクリミア以来の大兵を動かせたボーアの健児たちの
働きを賞賛するものであった。

日本人がアフリカへの進出が始まったのが明治20年代からであった。
日本の行商人も東アフリカの海岸づたいに進出し、南アフリカのケープタウン
まで進出している。

1902年の対アフリカ貿易は一億三千万円に達し、五年前の九倍もの額に達した。
日本綿製品の売り込みとウガンダ綿花の買い付けを行っている。

1932年にモンサバにそれぞれ領事館を開設した。
1927年には日本とエチオピアで修好通商条約を結んだ。

黄熱病の研究で知られた野口英世は世界的に有名である。

第二次世界大戦時における日本とアフリカの関わりは希である。
1942年にマダカスカル北端の軍港において、イギリス艦船を大破させ、
イギリス商船を沈没させたのは、日本海軍の潜水艦であった。

1945年に日本に落とされた原子爆弾のウランやプロトニウムは、ベルギー領
のコンゴで産出されたものであった。




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平成20年度
第2回
2時限目

■8世紀の平城京で活動した人々について、階層を区分して説明しなさい。


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平成20年度
第3回
2時限目

■室町期の守護権力による領国支配の特長と国衙機構との関連について述べなさい。



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平成20年度
第4回
2時限目

■一、『落穂集』で述べられている新番成立事情を紹介し、ついでその誤りである
   点について言及しなさい。

p.198〜まで

『落穂集』によると大奥女中の縁者を召し出してくれるよう将軍・家光に
願いが出ていた。
家光がその件について老中に尋ねると土井利勝の発案で、大番として召し出し
たらどうであろうと。
大奥女中は、大番だと京・大坂に在番しなければならず、その道中が
案じられるので別の職を願い、両番ではどうかと要請した。
すると土井は両番は三河以来の譜代で由緒あるものが召し出されることに
なっているため、できないと言う。
結局、両者の言い分を立て、家光と老中とで新しく新番を作ることに決した。

だが、『落穂集』の著者・大道寺友山は彼が5歳の時に新番が創置された。
そのため、『落穂集』に記載された新番に関する内容は、後世の人の
新番に対する考え方と受け止めるべきである。

『落穂集』の中で新番に関する内容に間違いが三点見受けられる。
第一に新番士に任ぜられたものが、大奥女中らの縁者であること。
第二に大奥女中らの縁者が、新しく召し出されたということ。
第さんに設立と同時に新番の職格を表す後世の役高に相当する定禄が
両番と大番の中間である二五0俵に決定したこと。

上記の三点が誤りであることを説明する。

新番士は、大番か小十人から転職してきたものばかりで構成され、
新規に召し出されてきた者は皆無であった。
また、彼らの出身は、徳川譜代の御家人であるか、徳川家に仕えて、
二代目、三代目に当たる者ばかりであり、決して新参者ではなかった。
新番士が二五0俵に格が決定したのは、新設されてから大分時代が下った、
万治年間である。



 二、一橋治済について知るところを述べよ。

p.229〜p.267まで
一橋治済は、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の実父である。

一橋治済は、松平定信の入閣を強く希望した。
その希望に応じて、御三家も連携して要請を幕府に出し、実現された。
これは、側用人政治に対する徳川一門の粛正運動である。

そもそも一橋治済の息子が将軍に擁立されたのは、
江戸幕府十代将軍徳川家治の継嗣である徳川家基が18歳の若さで
急死したためである。
将軍家治は四十三歳になっており、継嗣がいない状態となったことは、
天下の一大事であった。
こうして、将軍養君問題が起こるといくつかの候補が挙がった。
将軍家治の実弟・清水重好三十七歳がまず挙げられた。
次に一橋治済三十一歳とその子・豊千代(家斉)九歳である。
以上三名が次期将軍候補となったのである。
将軍家治の側用人として当時絶大な権勢を誇っていた田沼意次は、
弟・意職を一橋家の家老とし、治済に近づいた。
そして、根回しを十分に行い、治済の子・家斉を次期将軍とすることを
決定づけたのである。
こうして、意次は将軍養君問題での功績として一万石の加増その他を得ている。
意次は、家斉の次期将軍擁立という功績を作り、次期将軍の下でも権勢を
振るう保障を得たのである。
また、家斉の実父・治済と親しく交流することで益々足場を固めたのであった。

しかし、事態は将軍・家治が病床に伏してから意次の予想だにしない
方向へと流れていった。
意次は時の為政者として自分が推薦した医師を将軍家治の治療に当たらせたが
不首尾が起きてしまう。
将軍家治が病没すると意次は面目を失ったためか、病没による衝撃のためか、
引き籠もってしまった。
この時、意次一派の権勢に不満を持っていた徳川一門が立ち上がった。
治済は御三家と連携を図り、徳川一門は意次処罰を要求した。
また、松平定信を入閣させ、幕政改革を推進するよう求めたのである。
意次への処罰は、厳しいものとなったが、その背景には、意次一派の根強い
勢力に対する抑制の意味が含まれていたからである。
すなわち、意次が引き立てた幕府閣僚が多くいたことである。
水野忠友、井伊直幸、松平康福らが意次が老中職を罷免され後も、
幕閣にあった。
また、意次が将軍擁立運動で功績を立てたその次期将軍がいよいよ将軍と
なるに当たって、意次の功労が邪魔となるためである。
さらには徳川一門が今すぐに当時の幕政を掌握するだけの権勢を持って
いなかったためである。
こうした事情があったため、まずは意次一派の頭目である意次自体を
徹底的に権勢外へと追いやる必要があり、そのために厳罰に処したのであった。

治済や御三家を筆頭とする徳川一門は、将軍親政を望んでいた。
だが、将軍となったばかりの家斉は14歳とまだ幼い。
そのため、執政として松平定信を入閣させる必要があり、その入閣を
強く幕府に要請したのである。
しかし、定信が入閣した後も、幕政改革は一向に進まなかった。
それは意次一派の幕閣が要職に就いたままだったからである。
そのため、治済、御三家は相談の上、定信に将軍補佐という大老以上の
地位を与えた。
これによって、意次一派の幕閣を幕政から一掃することに成功し、
ようやく徳川一門が望む将軍親政のための環境が幕府に整ったのである。

治済は、初めは意次の次期将軍擁立に協力し、親密となったが、将軍家治が
没すると、掌を返して、前代の将軍新政を疎外したと口実を付け、意次を
処罰するため、御三家など徳川一門に働きかけ、意次失脚を成功させた。
次いで、未だ幼い将軍家斉を守る環境として、松平定信を幕閣に送り込み、
意次一派の幕閣を一掃することにも成功する。
こうして、家斉の成長まで定信に幕政を任せるに至ったのである。
定信は、家斉が二十一歳になると老中を辞している。

こうした治済の一連の運動から、治済ら徳川一門が幕政の
本来あるべき姿が将軍親政であることがわかる。
側用人政治を悪とし、将軍自らの政治こそ、善であるという
政治倫理観に基づいた闘争劇があったのである。


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平成19年度
第1回
2時限目

■日本とアフリカとの関係の歴史的推移を述べなさい。


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平成19年度
第2回
2時限目

■日本律令制における官職と位階の関係について説明しなさい。


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平成19年度
第3回
2時限目

■室町期における守護大名の領国支配の内容と国人領主による
 国人一揆の特長について述べなさい。



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平成19年度
第4回
2時限目

■次の事項を略述せよ。
 1.大奥女中縁者の新番への召出し
 2.一橋治済の幕政上の役割

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平成18年度
第1回
2時限目

■中国人の日本観・日本研究の推移を書きなさい。


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平成18年度
第2回
2時限目

■日本古代の官人機構について、中央と地方を対比して説明しなさい。


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平成年度
第回

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