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0662 日本史特講U 日大2年目から履修

2010年度 科目修得試験 3時限目

[履歴]
2010.04.12 新規作成


[試験範囲]

第1回 第2回 第3回 第4回
H22 --- --- ---
H21
H20 ---
H19 ○? ○? --- ---
H18





日本史特講U

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平成22年度
第1回
4時限目

■江戸幕府の大名統制策について、知るところを述べなさい。

江戸幕府が中央集権として基礎を固める意味で重要視した政策は、
大名の統制であった。

全国各地の要衝を抑えた幕府は、地方に点在する各大名を将軍と大名という
関係の下に統制することこそ、徳川政権確立の絶対条件と見ていた。

大名の区切りは、親藩、譜代、外様に分かれる。
親藩は、徳川一族であり、尾張藩、紀州藩、水戸藩の御三家に加え、
越前藩、会津藩を入れて、五藩が永続した。
御三家は諸大名中でもっとも権威があり、格式が高かった。
御三家の庶流をとくに連枝といった。御家門とも総称された。

譜代は徳川氏に関ヶ原の役以前から仕えていた家臣のことを指した。
関ヶ原の役以降に徳川氏に従った大名を外様大名と位置付けた。
譜代は幕政運営にも関係し、幕政の中枢部に参加することができた。
外様大名は大藩と言えども幕政に参加することは適わなかった。

幕末になって、国政を左右する西洋列強への対応に当たって、
はじめて外様大名の意見を徴するようになった。

徳川幕府は大名の地理的配置に多大な苦心を払っていた。
関ヶ原の戦い後の処分を区切りとして、改易・減封・移封を駆使し、
機会あるごとに配置の修正を行った。
それは極めて巧妙であり、江戸を中心とする関東、京都、大坂を
中心とする近畿、およびこれを結ぶ東海道をはじめ、貿易港の
長崎、主要鉱山の佐渡など諸国の政治・経済・軍事上の要衝は
全て幕府の直轄領ないしは、親藩、譜代の大名で固めたのである。
外様大名は奥羽・北陸・中国・四国・九州など江戸・京都・大坂から
比較的離れた地に配置された。
そして、親しきもの、疎いもの、石高の大きなもの、石高の小さなものを
組み混ぜて、大名同士が互いにけん制し合い、連合しないような配置とした。

改易・減封・移封を行うことで幕府の都合のよいように大名を
配置、整理、淘汰した。
これによって、大名は将軍に絶対的服従をなさしめるうえで大きな効果を
もたらした。
改易・減封の主な理由に、軍事的原因(反乱した者)、族制的原因(世嗣
の断絶)、法律的原因(幕府の法令違反)がある。

外様大名の財力削減策として、幕府初期において御手伝と称して、
城郭修理や築城、その他河川の土木工事などを外様に命じ、
費用一切を外様大名に自弁させた。
江戸時代中期になると大名の財政難が顕著になったため、大名統制の策として
の財力削減はあまり行われなかった。
1754年の薩摩藩による木曾・長良・揖斐三川の修理事業は多大な薩摩藩士の
犠牲を払わせたことで有名である。

1615年元和元年に幕府は、禁中並公家諸法度とともに武家諸法度を制定し、
幕府の権威の基礎ができ上がった。
これは諸侯に対する徳川家康の制御策の総括の発表であった。


参勤交代は将軍のいる江戸へ出仕して、謁することを義務化した制度である。
幕府が一定期間を定めて、交互に諸大名を将軍のいる江戸へ参勤させた。
この制度は、幕府が諸大名を臣従させ、中央集権の実をあげるために、
大きな成果を示した。




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平成21年度
第1回
4時限目

■太閤検地の具体的内容を説明したうえで、その歴史的意義・役割について
考察しなさい。

秀吉は畿内支配のために検地を実施した。
寺社・公家など旧来からの領主に対する地縁的結合の断絶および所領削減
を目的とした。
さらには年貢収益の増強を図るためであった。

天下統一をほぼ成し遂げた秀吉は、太閤検地を実施することで統一事業
を全国展開して、統治を確実なものとした。
また、身分統制を行い、戦乱の火種を絶つ意味でも実施されたのである。
太閤検地によって、兵農分離が一層強化されると共に検地で作成された
人口帳簿は、全国民を掌握する意味で必要不可欠なものとなった。

全国で平均の丈量単位が制定され、石高によって収穫高を表示し、
一様に検地帳に記入したことで、百姓の把握がなされた。
郷または村の単位で検地帳が作成され、全国くまなく中央政権によって、
把握、掌握がなされたのである。



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平成21年度
第2回
4時限目

■「慶安御触書」(諸国郷村被仰出)にみる、江戸幕府の農民統政策と、
その理念(思想)について説明しなさい。

「慶安御触書」は、1649年2月三代将軍家光の命により、諸国郷村へ仰せ出された
法令である。32カ条からなり、農民の生活指導に関する幕府の
理念を詳細に示したものである。
この法令の内容は、農民に対する極端な制限を与えたものであった。

百姓に対して、贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めた内容であった。

「幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭の
ことは真の親のように思って尊敬すること。」
これは、封建社会の統制のためと儒教の教えに沿った、主従関係を明確にする
内容である。
「酒や茶を買って飲まないこと。妻子もこれに同じ。」
「農民たちは栗や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べすぎないこと。」
「農民たちは麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。」
これは、贅沢な生活をして、身を持ち崩して農村の荒廃を招かないように
事前につつしませる意味があった。

「早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄をない、俵を編むなど
それぞれの仕事を油断なく行うこと。」
「男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。
たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への
参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から
色々と世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くても、夫の
所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである」
「煙草を吸わないこと。これは食物にもならず、いずれ病気になるものである。
その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いものである。
全てにおいて損になるものである」
これは家業に精を出し、慎み深く幸せな家庭を築くことを勧める内容となっている。
健康にも気を使う親切心は、平和な世の中を願う幕府のささやかな想いが
伝わってくる文章である。



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平成21年度
第3回
4時限目

■江戸時代の「株仲間」について説明しなさい。

座と称せられた一般商人の組合すなわち株仲間制度の樹立を幕府は奨励した。
株仲間制度は、江戸時代に江戸・大坂・京都を主として、その他
各藩の都市にも存在した同業者の団体である。
官憲の許可により、その保護の下にあって、それぞれその種の営業を
独占したのである。

株仲間の発生した要因は、交通機関が不十分であり、対外商業が禁止されて
いたため、国内市場が行き詰まってきた場合、各自の自由競争のままでは、
市場を維持し難いので、各自が互いに申し合わせて仲間を作る傾向が
生じたのである。
株は一種の権利である。
株数は官憲が定める場合があり、仲間が定めて官の許可を得る場合もあった。
新しく仲間に入る場合は、各同業者の承認により増株の許可を得るか、
廃業者の空き株を購入する必要があった。
株を有さない者は商業を営むことはできなかった。
この規則に反する者が出た時は、仲間から訴えられ、官憲はこれに対して、
商業の禁止を命ずる。
組合はこのような保護と特権を受けられるため、株仲間から官へ冥加金を
納めるのであった。

八代将軍吉宗は享保改革の一環として、商工業統制組織の再編成を意図して、
新興町人勢力を把握しようとし、さらに商工業者側の要望もあって、
組織させた。
幕藩権力は、この組合から出される冥加金の収入をもって財政窮乏を補う
ことができた。


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平成21年度
第4回
4時限目

■田沼政権期と寛政改革期の両時期における経済政策を比較し、その相違点(断絶面)
や共通点(継承面)について考察しなさい。


田沼政権の時期は、享保の改革による年貢増徴の効果がまだ続いており、
幕府財政も破綻(はたん)することなく安定していた。
しかし、都市経済の進歩に伴い、商品経済の進展が起こり、農村の階層分化
が徐々に拡大し、疲弊する農民が目立ち始めた。
ついには減免を求める一揆が増加し、収納高も減少へと向かった。
天明の飢饉が追い打ちをかけ、洪水による災害も起こり、
その手当や修復の土木工事により、幕府の蓄えも急激に減少した。
この幕府財政の窮乏の危機を打開する必要に迫られたのが田沼政権であった。

対策として、まず本格的に問屋や株仲間との連携を強め、強力な育成支援を
行った。
商品経済の発展による生産量の向上と流通過程の掌握によって、増収を
図る方針を取った。
問屋や株仲間の特権を認める代わりに、運上金や冥加金の徴収による
貨幣形態で増収を図ったのである。
もう一つの狙いは、組織化された問屋商人たちを通して全国の商品流通を
幕府が掌握し、物価問題を安定化させようとした。

特に米価の下落は、俸禄米取の武家経済に打撃を与える。
武家は俸禄米を貨幣に替えて、日常生活品を購入していたからである。
一方で米価の高騰は都市の町民の生活に打撃を与え、打ちこわしなど
民衆暴動に発展する。

田沼政権の末期にも米価高騰が起こり、大打ちこわしが起こり、鎮圧に
手を焼いた幕府はそれまで停滞していた幕府の官僚人事の刷新を踏み切らせる
ことになった。
その他、特定商品を幕府の独占販売とし、利益を得ようと専売制を行ったり、
貿易の振興、貨幣の鋳造、特定商人への営業資金前貸しを行い、収益の
山分けなど様々な商品経済政策を実施した。
新たな開拓地として、蝦夷地の開発を計画したり、大規模な干拓工事を
行うなど経済対策を推し進めた。
だた、幕府財政の基盤である農村の安定は顧みられず、疲弊し荒廃が進み、
社会問題化した。
田沼の重商主義政策は、農村対策に失敗し、年貢減少を招いた。

寛政の改革では、農村の復興策を中心に据え、商業資本の再編成、風紀の粛清、
旗本・御家人の救済、異学の禁止など諸政策を実施した。
幕府財政の健全化も図った。
荒廃した農村を保護し、年貢負担に耐えうる農業経営の維持と減少した
農業人口の確保を図った。

悪循環の風習となっていた納宿の廃止や悪代官の多くを罷免し、農民への
善政を布いた。
納宿は、年貢納めの際に事務手続きに不慣れな農民に代わって引き請け、
幕府の蔵に納めるまでを取り扱った。
彼らはその手数料の他に年貢不足の際に利付貸金をして、農民より有利な
立場を築き、中間搾取まで行った。
納宿の代わりに半官半民の「米方御用達」を設けて、それに登用された
商人を通じて年貢を納入し、農民への余分な負担をかけないようにした。

寛政の改革は重農主義の政策を推し進めた。
1788年江戸の富裕な町人7名を選び、「勘定所御用達」に任じ、物価統制の
ため、その資金を彼らに出させた。
彼らの資本と商業上の才覚をもって複雑な経済の統制を行おうとした。


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平成20年度
第1回
4時限目

■江戸時代の商業・商品流通機構・問屋制度について説明しなさい。


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平成20年度
第2回
4時限目

■田沼時代の経済政策について、江戸幕府がその成立当初から抱えていた、
経済の問題点の解決という観点から説明しなさい。



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平成20年度
第4回
4時限目

■寛政の改革について説明しなさい。




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平成19年度
第2回
4時限目

■松平定信政権の成立過程と、同政権が実施した改革運動・政策について、
説明しなさい。



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平成19年度
第2回
4時限目

■元禄文化と化政文化の両文化について、双方の文化の特質や相違点などを
説明しなさい。

元禄文化は、庶民的な面が色濃く現れた文化である。
また、町人ばかりでなく、武士階級の担い手も出た。
上方から発生した朱子学、自然科学、古典研究が発達した。
尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍した。
野々村仁清、本阿弥光悦らによる陶芸が発展した。
音楽では生田流箏曲などが出た。

化政文化は、町人文化である。
政治・社会の出来事や日常の生活を風刺する川柳が流行した。
文学では、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のように、庶民生活を
面白おかしく描いた滑稽な作り話が好まれた。
版画では、多彩な色彩を表現できる技術が向上し、錦絵などが好まれた。
元禄文化では文化の中心は上方であったが、化政文化では、江戸が文化の
中心となった。
音楽における京流手事物や陶芸の京焼など上方で著しく発展したものもある。



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平成18年度
第1回
4時限目

■「五人組制度」について、知るところを述べなさい。


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平成18年度
第2回
4時限目

■百姓一揆(含、村方騒動)にみられる闘争形態について説明しなさい。



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平成18年度
第3回
4時限目

■江戸時代の「問屋制度」もしくは商業流通機構について、説明しなさい。




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平成18年度
第4回
4時限目

■松平定信と寛政改革について知るところを述べなさい。




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平成年度
第回
時限目








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