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0665 東洋史特講T 日大2年目から履修

2010年度 科目修得試験 1時限目

[履歴]
2010.04.12 新規作成


[試験範囲]

第1回 第2回 第3回 第4回
H22 --- --- --- ---
H21 ---
H20
H19
H18
H17



--------------------------------------------------------------------------




東洋史特講T 試験範囲








H17
1回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。


一、宋代社会の歴史的性格をめぐる学説史について述べよ。


二、孫文のバランス・オブ・パワー政策について、
彼の日中ソ提携論に即して具体的に説明しなさい。




H17
2回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。



孫文の日中ソ提携論を、ワシントン体制との関係から論述しなさい。 高綱 博文先生



宋教仁の生涯における華黄会と中国同盟会での活動について述べなさい。 片倉 芳和先生







H17
3回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、辛亥革命と中華民国成立時における宋教仁の政治活動について述べなさい。 片倉 芳和先生

二、清朝入?前の史料、とくに「実録」について解説しなさい。 加藤 直人先生





H17
4回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、宋代封建社会の構造について述べよ。 斎藤先生


二、清朝入?前の史料をひとつあげ、それを解説しなさい。 加藤 直人先生









H18
1回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、孫文の対外戦略論の特徴と限界について論述しなさい。


二、宋代社会の歴史的性格をめぐる学説史について述べよ。



H18
2回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、孫文の1934年の「大アジア主義」講演について、彼の対外戦略論の視点から考察しなさい。 高綱 博文先生

二、中国同盟会の成立と宋教仁の革命活動について述べなさい。 片倉 芳和先生

H18
3回
1時限目
以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。


一、??の「実録」、とくに入?前の「実録」について述べなさい。


二、中華民国成立初期における宋教仁の政治活動について述べなさい。




H18
4回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、唐宋の変革について、土地制度と手工業・商業の発展と関連させて述べよ。 斎藤 史範先生

二、清朝入?前の「文書史料」について述べなさい。



H19
1回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。


一、孫文の対外戦略論の特徴と限界性について論述しなさい。 高綱 博文先生

二、宋代社会の歴史的性格をめぐる学説史について述べよ。 斎藤 史範先生

H19
2回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、孫文の1924年の<大アジア主義>講演の歴史的背景について論述しなさい。 高綱 博文先生

二、日本亡命中の宋教仁の革命活動と中国同盟会の成立について述べなさい。 片倉 芳和先生


H19
3回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、清末湖南の社会風潮と宋教仁と華興会の革命運動について述べなさい。 片倉 芳和先生


二、「満文老?」そして「満文原?」について述べなさい。


H19
4回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。



H20
1回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、宋代社会の歴史的性格をめぐる学説史について述べよ。 斎藤 史範先生

二、孫文の1924年の<大アジア主義>講演とワシントン体制の関係について説明しなさい。 高綱 博文先生 

H20
2回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、孫文の対外戦略論の要であるバランス・オブ・パワー政策について具体的な??ケースをあげて説明しなさい。 高綱 博文先生

二、日本亡命中における宋教仁及び湖南からの革命派の人々の清朝打倒運動について論述せよ。 片倉 芳和先生




H20
3回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、清朝末の湖南の社会と宋教仁の革命運動について述べなさい。 片倉 芳和先生

二、清入関前の文書史料について述べなさい。 加藤 直人先生

「逃人木當」、「刑部原木當」といった木當案(文書)は、入関前清朝の歴史を
知る上での第一級史料といえる。
「逃人木當」は、ホンタイジ時代前期に後金から他の地へ逃亡した、また
他の地から後金に逃亡してきた人々に関する事柄を主として記録した木當冊で
ある。
1626年から1630年までの155件の記事が収められている。

「刑部木當案」は、ホンタイジの治世の後期、すなわち「大清」建国後の
1638年から1639年までの「刑部」の満文木當案である。
434件記載がある。
内容は、刑部に関するもので審理状況に関する記述や審理を行った法官の
名などが記載されている。


その他の入関前の文書史料としては、内藤湖南氏が瀋陽・故宮の崇謨閣で
確認し、その青写真を日本にもたらした「漢文旧木當」と呼ばれる一群の
木當冊である。
それらは、朝鮮との外交文書、明より清(後金)に降った諸臣が奉った
上奏文などを主たる内容とする。入関前の政治・社会を知る上で貴重な
第一級の史料である。

「漢文旧木當」以外の漢文史料としては、
『明実録』、中央研究院歴史語言研究所の史料集『明清史料』、
『明清木當案存真選輯』、
『明清木當案』も貴重な第一級資料である。

他に朝鮮側の記録で客観的で、李朝の王国の記録である『李朝実録』を
はじめとして、太祖ヌルハチのなまの姿を伝える申忠一の『建州紀程図記』、
李民煥の『建州見聞録』、稲葉岩吉『光海君時代の満鮮関係』、
『瀋陽日記』、『瀋陽状啓』なども史料的価値が高い。




H20
4回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、唐宋の変革−唐宋時代における共同体分業と共同体間分業−について述べよ。 斎藤 史範先生

二、『満文老木當』と『満文原木當』について解説しなさい。 加藤 直人先生


H21
1回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、宋代社会の歴史的性格をめぐる学説史について述べよ。 斎藤 史範先生


周藤吉之氏は、宋元時代の地主佃戸制を最初にして克明に研究された。
その内容を見る。
唐末より宋代に至って「荘」は田園の所在を指すようになった。
漢より唐中期までの荘園の所有者は、宮廷や貴族であった。
唐中期から五代は節度使・武人が所有した。
唐の均田制の崩壊後は、均田農民は分解され、上層農民は荘園を持つ
者が現れた。
上層農民は節度使の保護を受けて官僚となり、
宋に入って、官戸形勢戸として荘園所有者となった。

宋代の荘園は、土地が集中している者と各地に分散している者とがいた。
土地の集中所有においては、複数の村を所有する者もいた。
しかし、宋代の荘園には不輸の特権がなく、ただ官僚の荘園は役を免除
されていた。
荘園には地主によって佃戸の中から指名された管理人がおかれた。
耕作人は、唐末には奴僕と荘客がいた。
宋代には奴僕の耕作は重要性がなくなり、佃戸の耕作が支配的となった。
佃戸は奴隷に近いものがあった。
宋代の荘客は一般に佃戸と言われるようになり、他にも客戸・佃客・租戸・
地客・火客・隷農などと呼ばれた。
彼らは他の郷里より移ってきて、地主に租契を納めて、土地・家屋・耕牛・
農具などを借りて、その代償として5〜6割の租と副租を納入し、雑役に
駆り出された。

慣習上佃戸は移転できず、禁止する一般法も存在した。

佃戸が土地と共に売買される「随田佃客」があった。
租課は現物納が主で、分益租・定額租があった。
佃戸は重い租を納め、高利の食料を返済するなど苦しい生活を送っていた。
南宋以後、凶作時には、朝廷も地主に対し、租課を軽減するよう命じている。
だが、あまり効果がなく、南宋末には佃戸は地主に租課を納めない「頑佃抗租」
を行うようになった。



周藤氏の問題点を挙げると
第一に、宋代地主の大土地所有が荘園という形態をとっていたとするが、
これは宮崎氏が指摘するように、宋代における商品経済の一定の発展の下、
土地所有はある程度分散的・零細的になっていて、荘園制があったとは
言えないとする。

第二に、周藤氏は佃戸の奴隷的隷属性を強調したが、そこからどうして
頑佃抗租が起こるのか。佃戸の佃権がなぜ形成されるのか。

第三に、佃戸の移転を禁ずる一般方が南宋初期に制定されたとするが、
その史料的根拠はない。

以上の問題点は残るがその他の点においては、史料を厳密に実証しており、
おおむね正しい。
周藤氏の言うように地主に経済的のみならず人身的、人格的に支配もされて
いたわけで、奴隷的という言葉は適さぬが、かなり強く隷属していたと
言えよう。


唐朝300年、課田法の下の隷属民である課戸の個人所有権を発達させ、
課戸は自由民となった。そこから没落した自由民は有力者の佃戸となったが、
自由民の地位を保ちつつ、契約関係を結ぶ佃戸となった。

佃戸は地主に租契(契約書)を納め、逃亡した際には、不法行為として、
連れ戻された。
これはあくまでも契約違反であったためで、佃戸の移転が不自由で
あったということはない。

p.12

宮崎氏の地主佃戸制の理解には宋代の商業経済の発達を考える必要があると
指摘した点は、周藤氏の研究にはない重要な点である。

仁井田氏の説は、周藤氏に基礎を置きつつ、相互補完的な関係を持つ。
8世紀から10世紀にかけて古代奴隷制社会と中世封建社会との
分界期である。

中世は封建社会であり、つまりは農奴制社会であった。
封建社会の土台は地主による農民支配である。
宋元と明清の前・後期に分かれ、その主要な基礎は「分」である。
地主と佃戸の関係は、前期の「主僕の分」から後期の「長幼の序」へと
発展し、明清においては「良田は良佃にしかず」といわれ、一田
両主制が出現するなど佃戸の成長がみられ、土地改革によって封建制
は克服されたとする。

仁井田氏は、宋代を封建社会の開始期とし、佃戸を農奴とした。
仁井田氏は、宮崎説を全面的に批判した。


二、孫文の1924年の「大アジア主義」講演の歴史的背景について論述しなさい。 高綱 博文先生

孫文は日本人が大アジア主義者であると見ていた。
孫文が唱える「大アジア主義」とは、日本を同盟国の対象として、
バランス・オブ・パワー政策の政治理念の表現であった。
それは日本に対して、反英米戦略の選択を迫る政治メッセージであった。

欧米列強のアジア侵略に対して、アジアの一体性や解放を説く主張・理念を
孫文が貫こうとした。そして、対英米戦略を貫徹しなければ、決して
中国に平和は訪れないと確信するにいたったのである。

清朝の時代に起きた大規模な運動となった太平天国、洋務運動、維新変法、
義和団運動を「四大改革」と呼ぶ。
しかし、太平天国がもたらしたのは、迷信と破壊だけであった。
洋務運動は「中体西用」を掲げ、古い体制にこだわり、中途半端な改良にとどまった。
維新変法は洋務運動より一歩進んだにもかかわらず、腐敗しきった清の統治を
よみがえらせることに失敗した。
義和団では、王侯貴族から民衆まで巻き込んだ反近代化、反進歩の総動員で
あった。結末は最も悲惨なものとなった。
これらの失敗を教訓として、孫文は新たな三民主義を唱えたのである。
民族主義、民権主義、民生主義の理論を展開し、中国民衆による民主的な
政権を目指したのである。



H21
2回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。


一、宋教仁の出身地湖南省や勉学の地湖北省の武漢での活動と
日本での中国同盟会での活動について述べなさい。 片倉 芳和先生

清朝打倒の辛亥革命前は、湖南の華興会や中国同盟会の活動で
指導的役割を果たした。

二、孫文の対外戦略論の特徴について、具体例を挙げながら、論述しなさい。 高綱 博文先生

孫文の対外戦略論として、日中ソ提携論が挙げられる。
中国問題を重要な議題とするワシントン会議の開催が決まると、
孫文は広東政府の国際的承認とその公式代表の参加を強く求めた。
孫文はアメリカ大統領・ハーディングに書簡を送り、親日的な北京政府を打倒する
必要を訴えた。

しかし、孫文の要請は却下され、ワシントン会議は広東政府を国際的に承認する
ことを拒否し、結果として孫文と広東政府はいかなる利益も与えなかった。

この対応に孫文は、ワシントン会議を列強による「中国利権を分割」するための
ものであったと厳しく非難した。
孫文はこの時をもってアメリカの支援を期待しなくなり、仇敵イギリスと
同じようにアメリカに対しても敵対するようになった。
反英米姿勢を孫文が取る契機となったのは、1922年4月の第一次奉直戦争の
勃発であった。この戦争の結果、親日派張作霖が敗北し、北京政権が
親英米派呉佩孚によって掌握された。これにより北京政府内から親日派勢力が
排除された。
この経過で孫文は、政敵を北京政府で権勢を誇る直隷派軍閥とそれを
支援する英米へと変化させた。

孫文は日本政府に対して、西欧列強の支配力を排除するために、中国革命へ
の援助とソ連の承認を実現させ、日中ソ提携を成立させるよう去就を迫った。

1924年11月に最後の訪日をした孫文は、犬養毅に書簡を送り、直接彼から
日本の去就を質そうとした。

孫文は日ソ合作が成立した場合、中国が両国より抑圧されることを恐れた。
この最悪の事態を未然に防ぐために中ソ合作・中日合作と順を追って提携
していき、ソ連と日本よりも機先を制して勢力の均衡を図ろうとした。
バランス・オブ・パワーを真髄する孫文は、こうした勢力の均衡を図る
提携を成すことで巧みな対外戦略を成そうとしたのである。




H21
3回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。

一、中華民国初期における宋教仁の政治活動と第二革命について述べなさい。

1911年12月中華民国成立の際、宋は上海における同盟会幹部会に参加し、
孫文を臨時大総統に推挙することに同意した。
しかし、宋は大総統が内閣の実権を握ることには反対した。


宋教仁は、最高権力者が専権を振るう政治よりも、議院内閣制に
基づいた法による統治を目指した。
特に大総統の権限を制限しなければ、中国の安定は望めぬと考えていた。


新たな政府の組織体制について論議がなされた際、宋は責任内閣制を
主張したが、議会は否決した。

1912年1月南京臨時政府が成立すると宋教仁は法制局局長に任命された。
同年3月、唐紹儀内閣が成立すると宋は農林総長となった。
同年4月、宋は後世のための人材育成を憂い、賛同者と協力して武昌に法律政治
を学ぶ大学を創立し、江漢大学と名付けた。

袁世凱政権を批判した宋は、唐内閣が倒れると政府の要職を去った。
そして、革命組織を改組して国民党を組織し、事実上の党首となり、
政治活動を行った。

袁世凱は宋の国民党に脅威を感じ、宋への懐柔策を図るがことごとく失敗した。
50万元の小切手を袁世凱が宋へ送った際も彼は受け取らず断ったという。

1912年12月、全国で国会議員選挙が実施され、選挙の結果、国民党が第一党
となった。袁世凱はすぐさま電報にて宋と国事について話し合いたい旨を
打診し、北京へ出向を要請したが、宋はまったく無視した。


1913年3月、宋は演説で袁世凱政府は民意を反映した政府ではなく、
退歩の政府であると批判した。
上海にて宋は他の国民党指導者と正式国会における党略問題を検討した。
演説にて宋は共和国憲法を制定し、純粋な政党内閣を作るべきことを強調した。

宋教仁の目指す法整備による国家再建は、ますます力をつけた。
それと同時に袁世凱への糾弾が激しさを増した。

宋は自ら内閣を組閣し、国会にて袁世凱を糾弾し、罷免に追い込み、
黎元洪を大総統に据えようと図った。
これに対し、袁世凱はついに刺客を放ち、宋は射殺された。
宋教仁の無二の親友だった北一輝は、宋暗殺の黒幕は孫文であったと述べている。





第二革命は、1913年7月に起きた、孫文ら国民党勢力による袁世凱政権打倒の
ための一連の軍事蜂起のこと。
結果は国民党側で内部統率が取れず、民間や海外の支持も集めきれないまま
敗北した。

蜂起に至る経緯は、中華民国成立後、2代目大総統に就任していた袁世凱に
対して、宋教仁は専権を批判し、内閣を組閣して、袁世凱を政界から
追い出そうと図った。
これに対し、袁世凱は刺客を放ち、宋を暗殺した。

この時、孫文は中華民国の全国鉄路督弁として中国国内の鉄道建設計画に
取り組んでいた。だが、宋暗殺の知らせを訪問先の日本で受け取ると
中国へ帰国し、武装蜂起して袁世凱を打倒しようと図った。
袁世凱との和解を図っていた黄興ら国民党有力者も結局は孫文の強硬姿勢に
賛同するに至る。
軍事蜂起するまでの間、国民党は各地で暗殺、破壊活動を行ったが、
大きな成果は無く、北洋政府により鎮圧された。
袁世凱は3都督を罷免し、国民党に対する軍事作戦を策定した。

1913年7月、各地で国民党は蜂起し、黄興は南京にて独立を宣言した。
しかし、袁世凱の北洋政府軍が南進すると革命軍はこれを防げず。
革命軍は各地で戦いに敗退した。
同年8月、孫文らは日本へ亡命し、第二革命の争乱は終息した。

武力で国民党を倒した袁世凱は正式な大総統に就任し、同年11月に
国民党を正式に解散させた。
国民党員の国会議員から議員資格をはく奪し、国民党員を迫害した。
ついには国会をも解散させ、専制政治を敷いた。
孫文らは1914年6月に東京にて中華革命党を結成し、反袁世凱闘争を
続けた。



二、「満文原木當」と「満文老木當」について解説しなさい。

1931年に北京・故宮博物院の内閣大庫から、
『満文老木當』のオリジナルと考えられる抄写木當冊が発見された。
一般に「満文原木當」と称されるもので37冊を数える。
17世紀前半に記録されたもので、基本的に満州語(一部はモンゴル語)で
記されている。


「満文老木當」は、清朝入関前の基本史料とされている。
「満文老木當」とは、「満州語で書かれた古い文書」という意味である。
また、あくまでも便宜上の通り名である。
「満文老木當」は18世紀後半、乾隆帝時代に作られた鈔本で、太祖ヌルハチ
の時代から太宗ホンタイジの「大清」の建国までの記録をほぼ編年体で
まとめている。

「満文老木當」の原典は、1931年に北京の故宮博物院の旧内閣大庫の中から
発見された。
この史料を「満文原木當」という。



H21
4回
1時限目

以下の2つのうち、一つを選び、答えなさい。


H22
1回
1時限目








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