メインページへ戻る
第一回 2010年4月11日(日曜日)へ戻る


0666 東洋史特講U 日大2年目から履修

2010年度 科目修得試験 3時限目

[履歴]
2010.04.12 新規作成


[試験範囲]



--------------------------------------------------------------------------
平成22年度
第1回
3時限目

★過去問の調査の必要あり。

--------------------------------------------------------------------------
平成22年度
第2回
3時限目


20世紀初頭(1903〜1910)に日本で展開された列強資本主義の対中国侵略に
対する留学生たちの民族運動と中国同盟会の結成を中心とする革命運動に
ついて記述せよ。



--------------------------------------------------------------------------
平成22年度
第3回
3時限目



--------------------------------------------------------------------------
平成22年度
第4回
3時限目




--------------------------------------------------------------------------

平成21年度
第1回
3時限目

■清朝末期の20世紀初めに日本に留学した中国の青年たちは、
日本でどのような組織を作って活動したのか、
1903年から1906年までの間に実行した諸活動について記述せよ。


1903年5月 拒俄義勇隊・軍国民教育会を結成。

1904年 華興会、光復会など反清革命団体が次々と各地生まれた。

1905年8月 留日学生を基盤に日本の東京において中国同盟会を結成した。
     総理には孫文が就任し、「韃虜を駆除し、中華を恢復し、民国を創立し、
     地権を平均する」という四大綱領を採択した。
     『軍政府宣言』、『中国同盟会総章』を文書にて採択し、国内外に支部及び、
     分会を設置した。

1905年11月 中国同盟会は、機関紙『民報』を発刊した。

1906年 「革命方略」が革命派のリーダーである孫文、黄興、章炳麟らによって、作成された。
    革命放棄後の政権作りに備える準備、方針を定めたもので、この時から革命軍は国民軍と
    名乗るようになった。その後の武装蜂起後、国民軍と名乗っている。


--------------------------------------------------------------------------
平成21年度
第2回
3時限目

■1907年以後の革命運動及び1910年にはじまる中国同盟会の再建過程並びに
1911年初めに結成された留日中国国民会と活動について記述せよ。


1907年 中国同盟会とは別に東京にて共進会が結成された。
    孫文の指導で華南を舞台に度々実行された革命派の武装蜂起は、
    ことごとく失敗し、革命派内部でも孫文の指導者としての批判が高まった。
    そのため、中国同盟会とは別に共進会が結成されたのである。

1908年10月 日本政府の干渉によって、中国同盟会の機関紙である『民報』の発刊が禁止された。
      これによって、革命運動は大きな打撃を受け、孫文・黄興ら指導者たちをはじめ、
日本に滞在する革命派は、日本警察の監視下に置かれた。

1909年6月 湖広総督張之洞が、英・仏・独三国の銀行団と「湖北・湖南両省内の
     粤漢鉄道(えっかんてつどう)、湖北省内の川漢鉄道借款(しゃっかん)契約」
     に調印した。
     この事実を日本で知った湖南・湖北両省出身の留学生たちは、借款拒否の反対運動を
     展開した。

1910年 光復会が復活した。中国同盟会本部は事実上解散状態に陥った。

1910年11月 孫文が黄興、胡漢民、趙声らとともにマラヤのペナンにて会議を開き、
      広州蜂起計画が決定された。
      計画では、手始めに広東省広州を奪取し、さらに揚子江流域一帯である華中へと
      攻めのぼるというものであった。

1911年


--------------------------------------------------------------------------
平成21年度
第3回
3時限目

★過去問の調査の必要あり。



--------------------------------------------------------------------------
平成21年度
第4回
3時限目

■1911年10月10日の武昌蜂起にはじまり、1912年に誕生する中華民国臨時政府の樹立に
至る政治過程とその歴史的意義について記述せよ。

1911年9月 四川省における保路運動が暴動化し、事実上革命運動へと転化し始めると
武漢地方の新軍が四川省に動員されることになった。

武漢地方の革命派は、9月14日共同の蜂起司令部を成立させ、9月24日の会議で蜂起の
日を10月6日(陰暦の中秋節)と定めた。
準備不足のため繰り延べされていた蜂起日であったが、10月9日午前、漢口のロシア租界
にある革命派の拠点で製造中の爆弾が破裂し、警察沙汰となった。
この時、党員名簿が警察に押収された。
革命派は党員の捕縛が迫っていると予測し、武昌の蜂起司令部で緊急会議を開いた。
当日夜中に決起することを決めた。
しかし、決起が遅れたため、司令部に軍警が突入し、数名の党員が逮捕され、
翌朝に処刑された。
追いつめられた他の党員・兵士たちは10月10日夜、新軍内の党員・熊乗坤の呼びかけに
決起し、武昌の楚望台にある清軍の武器弾薬庫を襲撃した。
この楚望台の守備隊の中からも決起に呼応する者が現れ、武器弾薬庫は蜂起軍によって、
占領された。

各地に分散していた革命派部隊も次々に決起し、翌日11日朝には、湖広総督の役所も
攻略し、武昌は革命派蜂起軍によって、完全に掌握された。

同日夜には、漢陽の新軍が呼応して蜂起し、次いで12日朝には漢口の新軍が呼応して
蜂起した。
こうして武漢三鎮は完全に革命派蜂起軍によって、清朝統治から解放されたのであった。

★湖北省の中に武昌・漢陽・武漢がある。
★安徽省の中に漢口がある。

1911年10月11日、革命派は湖北省諮議局で立憲派の湯化龍(とうかりゅう)らと会議を
開き、軍政府の樹立に着手した。
清朝の将軍・黎元洪(れいげんこう)を軍政府都督に、諮議局議長の湯化龍を
政務部長に選出した。
黎元洪は当初、清朝の反撃を恐れて、都督就任を拒み続けたが、革命派に形勢が
有利になると都督に就任した。

湖北政府は内政政策として、
1.民国の創立
2.五族共和の実行
3.苛捐雑税(かえんざつぜい)の廃止
4.同年下期の税糧
5.滞納されている漕糧の免除
上記の政策を公布した。
この恩徳によって、清朝打倒のための清軍中の兵士や大衆の決起を呼びかけた。

外交面では、漢口駐在の外国領事に対して、
清朝が過去に各国と結んだ条約の承認、
賠償金や借款(しゃっかん)の支払い、
外国人の財産や既得権益の擁護、
を行うことを表明した。
一方で各国が清朝を支援しないこと、
支援した場合は、敵国とみなすことを通告した。

湖北政府は、革命政権を存続させ革命の進展を図るため、革命軍兵士の
大募集を行った。
募集者は連日つめかけ、4個歩兵旅団の定員はすぐに満たされた。
武漢三鎮の陥落に驚いた清朝は、陸軍大臣・蔭昌に2個師団を与えて、
武漢征討軍を組織させた。
革命軍は劉家廟が率いる軍勢が漢口の手前でこの清軍を迎え撃ち、打ち破っている。

武昌蜂起後、一か月も経過しない間に13省が清朝の支配から独立し、革命政権を
樹立させた。
その理由は、
1.同盟会を中心とする革命派が各省で知識人、会党、軍隊などに組織活動を進めており、
着実にその成果が実っていたこと。
2.立憲派や資本家階級などが清朝に幻想を抱き、国会開設運動を推進させたが、
  「皇族内閣」の成立により頓挫したこと。
3.新たな列強の侵略政策において、有効な手立てが打てないでいる時期に、
  鉄道国有化政策で彼らの利権を奪い、再び西欧列強へ売り渡そうとしたことへの
  大いなる反発。
4.抗捐抗税(こうえんこうぜい)や食糧暴動など清朝の悪政に反発し、民衆闘争が
  全国的に展開されたこと

など複数要因によってなされた。


西欧列強は、武昌蜂起以後の革命の進展に対して、中立の立場を表明していた。
しかし、背後では、イギリス公使ジョルダンらの策謀により、袁世凱の擁立が進められていた。

イギリスは統治能力を失った清朝に圧力を加え、11月1日皇族内閣を解散させ、
袁世凱を内閣総理大臣とする新内閣を組織させた。

袁世凱は立憲派とも関係を持っており、革命側の政権作りの会議で袁世凱が
共和制を認めるならば、大統領へ選出してもよいとの決定もなされた。

12月2日に南京が独立すると勢いを失くしていた革命派の空気が一変し、臨時革命政府の
所在を南京に定め、10省以上の代表が集合すれば、臨時大統領の選挙を実施することが決定された。
12月中旬以降になると南京に集合した17省の代表による臨時大統領の選挙準備会が開かれ、
12月29日臨時大統領に孫文が選出された。

1912年1月1日を中華民国元年に定めることも決まり、
臨時大統領に就任した孫文は、
民意に基づく政治と民衆への奉仕を誓うと共に、主権在民・五族共和の実現を宣言した。


革命派の地道な努力と国粋の精神が武昌蜂起の成功に結実したのである。
武昌蜂起から連鎖的に革命軍が勝利したのも清朝の悪政が改善する余地のないことを意味し、
完全なる統治能力の無さを露呈させた結果であった。



--------------------------------------------------------------------------
平成20年度
第1回
3時限目

■清朝末期の20世紀初めに日本に留学した中国の青年たちは、日本でどのような組織を
作って活動をおこなったのか、1903年から1906年までの間に実行した活動について
記述せよ。



--------------------------------------------------------------------------
平成20年度
第2回
3時限目

■1910年にはじまる中国同盟会の再建過程と1911年初めの留日中国国民会の結成に
ついて記述せよ。



--------------------------------------------------------------------------

平成20年度
第3回
3時限目

■1911年6月に結成された中国国民総会と各省に結成されたその分会は、
中国同盟会の部総会及びその分会とどのような関係にあったのか説明しなさい。


中国同盟会東京本部は、同盟会員で留学生総会の幹事長である熊越山(ゆうえつざん)を
中心に英・仏・露の三国の侵略に対抗するために、留学生を糾合して1911年3月に
留日中国国民会を結成した。
同会の目的は、列強の侵略に対抗し得る国民軍を創設することで、
その任務を各省諮議局が担当することを要求した。
留日中国国民会の理事長は、中国同盟会員の李肇甫(りちょうほ)であった。
留日中国国民会の運営は事実上、革命派が掌握していたのである。

留日中国国民会は本国に代表を派遣し、上海に中国国民総会(同会本部)を組織し、
各省に国民分会を設立して、列強侵略への抵抗運動を成し遂げようとした。

各界が大団体を組織して、総機関(本部)を作り、中国全土の同志たちを奮い立たせる
ことを要望するものであった。
各省の国民分会の中心としての総機関の設立が急務であった。


3月〜7月にかけて、上海、雲南、奉天、吉林、山東、浙江(せっこう)、福建、
広東、広西など各地に代表を派遣し、上海本部ほか各省に分会を設置した。

上海本部(中国国民総会の本部)の会長には、民営の信成銀行副頭取で同盟会員の
沈縵雲(ちんまんうん)が選出された。
中国国民会は、国民軍の基礎となる模範体操団を組織し、既存の全国商団連合会
(会長は李平書(りへいしょ))と共に、救国のための武力の創出を各地の諸団体に
呼びかけた。
中国国民会の主要な構成員は、革命派の人々で、同会は救国団体であると同時に
革命運動を推進していく上での隠れ蓑としての役割を果たした。



中国国民総会が中国同盟会の会員を多数抱え、実に同盟会の外郭団体としての
役割を果たしていた。
中国国民総会の目的は、あくまでも列強の中国侵略に対する武装抵抗することであり、
幅広い民族統一戦線を築くための組織であった。

また、中国国民総会には、中国学界聯合会、全国商団聯合会、福建学生会、四川
旅滬同郷会(しせんりょこどうきょうかい)、嘉定旅滬同郷会、中国精武体操会、
中国教育会、国界調査会、商団体育社、上海日報公会などの大衆団体からも、
役員として代表が派遣されていた。
それは、救国を共通の目的とする大衆団体の総機関としての役割を担っていたからである。

中国国民総会は、留日中国国民会の活動方針にみられるように、中国本土の各省各府
州県に設立される国民分会(支部)の本部としての役割を果たすと共に、
同会の活動方針を支持し、役員として同会に代表を派遣している諸団体や個人参加者の
意向をも代表する総機関としての役割を担った。

中国国民総会は、総会会章の総則第二条において、
「本会は、尚武精神を提唱し、団練を興弁し、国民が尽くすべき義務を実行するをもって
宗旨となす」と定め、同会が果たすべき基本的任務を示している。

救国のため武力を創出し、清朝政府に依存することなく、国民自らの手で、国民自らが
兵士となり、実現をすることを目指した。
国民への最大の義務と定め、その総本部として中国国民総会が設立されたのである。



--------------------------------------------------------------------------
平成20年度
第4回
3時限目

■1911年10月に勃発した辛亥革命の過程で、日本に留学した中国の青年たちは
どのような役割を果たしたのか。できる限り具体的に記述せよ。



--------------------------------------------------------------------------
平成19年度
第1回
3時限目

■清朝末期、20世紀初めに日本に留学した中国の学生たちは、日本でどのような学生
生活を送ったのか。日露戦争前後の彼らの政治活動を中心に記述せよ。


--------------------------------------------------------------------------
平成19年度
第2回
3時限目

■1911年初めに発生したロシア・イギリスの対中国侵略とこれに対抗して結成された
留日中国国民会の役割について記述せよ。

--------------------------------------------------------------------------
平成19年度
第3回
3時限目

■1911年6月に結成された中国国民総会と7月に結成された中国同盟会中部総会は
どのようなものか。両組織はどのような関係にあったのか。

1911年6月に上海にて、中国国民総会が創設された。
これと志を同じくする全国商団聯合会、全国学界聯合会などが相前後して、
創立された。上海は清朝政府に対する批判的風潮がみなぎっていたのである。

そうした雰囲気の中で宋教仁らは中国同盟会中部総会の創立に向け準備活動を
進めた。
1911年7月に中国同盟会中部総会の成立大会が開かれ、同志たちの参加、
加入の著名が行われた。
役員選挙で各人事が行われた。
その後、関連団体として、南京分会、湖北分会、湖南分会、安徽分会、四川分会、
江西分会が設立された。
揚子江流域の各省に分会が設立され、上海本部を中心とする中部革命のための
配置・活動拠点が徐々に整えられていったのである。




--------------------------------------------------------------------------
平成19年度
第4回
3時限目

■1911年10月10日の武昌蜂起に始まり、1912年1月1日の中華民国臨時政府の
成立にいたる辛亥革命の政治過程について記述せよ。


--------------------------------------------------------------------------
平成18年度
第1回
3時限目

■清朝末期の20世紀初めに日本に留学した中国の学生たちが、日本でどのような
学生生活を過ごしたのか。
日露戦争前後の彼らの活動について記述せよ。

--------------------------------------------------------------------------
平成21年度
第2回
3時限目

■日本の安奉鉄道改築事件にはじまる欧州諸国による新たな中国侵略とともに
1911年の留日中国国民会の成立の意義を記述しなさい。

--------------------------------------------------------------------------
平成18年度
第3回
3時限目

■1911年、中国同盟会は革命蜂起の中心を華南に移すため、中国同盟会中部総会を
上海に設立した。
また、列強の侵略に抵抗する組織である中国国民総会が上海に創設された。
両者の関係について記述せよ。

--------------------------------------------------------------------------
平成18年度
第4回
3時限目

■1911年10月10日に勃発した辛亥革命が成功していく政治過程と中華民国の成立
並びに民国元年の政治過程について記述せよ。

--------------------------------------------------------------------------
平成年度
第回
時限目



--------------------------------------------------------------------------
平成年度
第回
時限目



--------------------------------------------------------------------------
平成年度
第回
時限目







メインページへ戻る
第一回 2010年4月11日(日曜日)へ戻る