□公卿-くぎょう
  天皇に仕える貴族を武家に対して、公家(くげ)という。
  公家の中でも三位(さんみ)以上の人を公卿(くぎょう)と
  いった。
  幕末の頃、一般民衆は貴族のことを”お公卿さん(おく
  げさん)”と呼んだ。

□琉球-りゅうきゅう
  今の沖縄県の古い呼び名。
  沖縄本島を中心に60余りの島々からなる。
  明治維新までは尚(しょう)氏が支配し、都は首里(しゅり
  ・今の那覇市)にあった。

□日米和親条約-にちべいわしんじょうやく
  アメリカの船が、下田・箱館(函館)の2港で水や薪(まき)、
  石炭や食料を求めたら、与える。
  2港に船員が上陸してもよい場所を設けるなどの内容。
  ※アメリカと日本との自由貿易を決めるものではない。

□松下村塾-しょうかそんじゅく
  吉田松陰の叔父が開いていた塾を、松陰が受け継いだ。
  この塾から高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など名だたる
  維新の志士たちを輩出した。

□シーボルト
  長崎のオランダ商館の医師。
  診療のかたわら、鳴滝塾(なるたきじゅく)を開いて、多くの
  日本人にオランダ語や西洋医学を教え、日本近代化に
  力を尽くした。

□ハリス
  日本における最初のアメリカ総領事。
  日米和親条約によって開港した下田の玉泉寺(ぎょくせんじ)
  に領事館を開き、アメリカ国旗を日本国内で初めて揚げた。

□アロー号事件
  1856年、中国の兵士がイギリス船「アロー号」に乗船していた
  中国人水夫を海賊の疑いで捕らえたことに対して、イギリス
  が抗議し、中国を攻めた事件。

□不平等条約-ふびょうどうじょうやく
  外国人が日本国内で悪いことをした場合、アメリカ領事が裁判
  する権利を持ち、日本側は何も出来ないこと。
  日本が外国から品物を輸入する時にかける関税率を決める
  権利は日本になく、外国に一方的に決められた。

□一橋派-ひとつばしは
  一橋派では、水戸藩主・徳川斉昭以外の大名は開国に賛成だった。
  一橋派では、諸外国からの圧力に対抗するためには賢明な一橋
  慶喜を将軍にして、改革に当たる必要があると考えていた。

□尊王攘夷論-そんのうじょういろん
  天皇を中心とした国家にしようという”尊王論”と外国人を追い払おう
  という”攘夷論”が、結びついた考え。
  開国方針をとる幕府に対抗する考え方だった。

□梅田雲浜-うめだうんぴん
  若狭(今の福井県)小浜藩士だったが、脱藩して浪人となる。
  京都の尊王攘夷派の中心となり、幕府の条約調印に反対し、
  井伊直弼ら幕臣からにらまれていた。

□幕府最初の使節団
  1860年1月、外国奉行ら77名がアメリカの軍艦「ポーハタン号」
  で渡米。
  団長は外国奉行・新見正興(しんみまさおき)。
  ちょんまげを結い、刀をさした一行はどこでも大歓迎を受けた。
  このとき、護衛と実地訓練を兼ねて、日本の軍艦「咸臨丸(かんりん
  まる)」も渡米。

□咸臨丸-かんりんまる
  オランダに注文して建造された汽船。
  全長50m。小さいながら大砲12門を備えた列記とした軍艦。
  艦長は勝海舟。
  1860年の渡米では乗員96名て出航。
  乗組員には福沢諭吉、通訳のジョン万次郎(中浜万次郎)らが
  いた。

□桜田門-さくらだもん
  江戸城の門の一つで、西南方にあり、井伊直弼の屋敷はこの
  門の外にあった。
  3月3日は桃の節句で、直弼は江戸城で節句の祝いを述べるため
  に屋敷を出て江戸城に向かう途中、水戸藩浪士らに襲われ、
  惨殺された。

□桜田門外の変の実行犯十八名
  水戸浪士は金子孫二郎、関鉄之助、高橋多一郎ら17名。
  薩摩藩士は有村次左衛門(ありむらじざえもん)1名。
  有村が最後に井伊直弼の首を斬った。
  その後、有村は彦根藩士に斬られ、路上で死んだ。

□公武合体策-こうぶがったいさく
  一口に公武合体といっても、主旨は別々に有り、幕府は幕府
  権力の再興のために、朝廷は攘夷のために、公卿は公卿の
  力を少しでも強くするために主張したものだった。

□寺田屋-てらだや
  淀川を船で上り下りする乗客を接待する船宿。
  寺田屋は薩摩藩士がしばしば利用した宿で、女主人・おとせが
  経営していた。

□寺田屋事件-てらだやじけん
  1862年4月23日、船宿寺田屋で急進派の志士たちが討幕の会合
  を開いていたが、薩摩藩主・島津久光は剣の名手・9名を選び抜き
  、鎮圧を命じた。
  鎮圧隊は”上意(じょうい)”(殿様の命令)と叫んで急進派の志士
  たちを斬り、30名余りいた急進派の会合を鎮圧した。
  首謀者格の有馬新七・柴山愛次郎ら6名が死亡。2名が重傷を負い、
  この2名は翌日切腹を命ぜられた。

□生麦事件-なまむぎじけん
  1862年8月21日午後2時すぎ、生麦村へ差し掛かった島津久光の
  行列に外国人の一行がぶつかる。
  道のわきへよるように注意され、外国人は道路わきに進んでいくと
  久光の駕籠が見えてきた。
  今度は引き返すように注意されたので、馬の向きを変えた。
  その途端、数人の武士がその外国人にかけより、”無礼者”と
  怒鳴りつけて斬りつけてきた。
  馬の向きを変えようとしたのが、列の中へ割り込むように見えた
  のである。
  この時、薩摩藩士に襲われた外国人はイギリス商人ら4人で
  イギリス人リチャードソン、横浜に住むクラークとマーシャル、
  それに香港から来ていたボロデール夫人。
  彼らはその日が滞在する外国人にとって、外出許可された日で
  あったので川崎大師を見物しようと馬に乗って出かけていた。
  一人は死亡。二人は重傷を負った。婦人だけ無事だった。
  婦人は居留地に飛んで帰り、事件を報告。
  すぐさまイギリス外交官が幕府と談判を始めることとなる。
  イギリス人を斬った罪で、薩摩藩士・奈良原喜左衛門が切腹を
  命じられた。だが、実際の殺害者は喜左衛門の兄・喜八郎で
  有能な喜八郎を惜しんだ島津久光が弟の身代わりにさせたと
  いわれる。

□賀川の手首-かがわのてくび
  和宮の結婚話を進めた千種有文(ちぐさありふみ)の家来・賀川
  肇が殺され、その腕が主人のもとに送られた。
  また賀川の手首は、岩倉具視のもとに送り届けられた。

□京都守護職-きょうとしゅごしょく
  京都で暴れまわる尊王攘夷派を取り締まるために1862年に設置
  された幕府の役職。
  役所は金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)に置かれ、その職に
  就いた28歳の松平容保がその年の12月に京都に入った。

□将軍・徳川家茂の上洛
  1863年3月、14代将軍・徳川家茂は3000の兵を率いて上洛。
  二条城に入った。将軍上洛は三代将軍・徳川家光以来、実に
  231年ぶりのことであった。
  ※1634年、徳川家光が上洛した時には、幕府の力を朝廷に見せ
    つけるため、30万の大軍を率いていた。

□賀茂神社-かもじんじゃ
  上賀茂神社と下賀茂神社に分かれ、天皇が代々信仰する朝廷の
  守り神。
  1863年、孝明天皇は上洛した徳川家茂や一橋慶喜を率いて、戦い
  の神を守る岩清水八幡宮にお参りして、攘夷を祈っている。

□奇兵隊-きへいたい
  封建的な身分にかかわりなく、農民でも町民でもやる気があれば
  隊への参加を認めた。
  1863年6月、大商人・白石正一郎の屋敷で結成され、白石が隊の
  運営資金を出した。

□孝明天皇の考え
  孝明天皇は、外国人嫌いの熱心な攘夷論者だった。
  しかし、攘夷はどこまでも幕府を中心にして公武合体で行うべき
  だと考えていた。

□8月18日の政変
  8・18の政変は、孝明天皇の考えを受けて、公武合体派の公卿の
  中川宮を中心にして進められ、武力行動は会津藩と薩摩藩、淀藩
  が担当した。
  それまで長州藩の尊王攘夷派志士らが朝廷を動かしていたが、
  1863年8月18日、長州藩を締め出した上で、公武合体派が主導権
  を握り、一日にして朝廷の意見を公武合体派に変えさせてしまった。

□七卿落ち-しちきょうおち
  1863年8月18日の政変で攘夷派の公卿が朝廷より締め出され、
  公武合体派の公卿が主導権を握った。
  これにより、攘夷派の公卿、三条実美(さんじょうさねとみ)、
  三条西季知(さんじょうにしすえとも)、沢宣嘉(さわのぶよし)、
  東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、
  錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)、壬生基修(みぶもとおさ)の
  七人は京都を追われ、長州藩士とともに長州へと落ちて行った。

□十津川郷士-とつかわごうし
  奈良県吉野郡十津川村に住んでいた約1000人の村人たち。
  むかし、吉野の南朝に仕えた人々の子孫といわれ、農業を営んで
  いたが、武士の資格を与えられていた。
  8・18政変の少し前の8月13日、天皇の大和行幸が決まると
  翌日に京都から大和へ向かった一隊があった。
  若い公卿・中山忠光を主将とした、尊王攘夷派の武士たち
  30人余りで組織された”天誅組”である。
  天誅組は大和五条の代官屋敷を襲い、代官を斬った。
  天誅組は周辺の住民に
  「この度、天皇が攘夷の戦いの総大将として大和へこられる事に
  なった。我々はその先駆けで幕府を倒す。」と参加を呼びかけた。
  天誅組の誘いで十津川郷士も隊に加わった。
  しかし、佐幕派の公武合体派が朝廷の実権を握り、天皇も討幕を
  望んでいないことを知った郷士たちは敗戦をきっかけに散り散りに
  なった。

□生野の乱-いくののらん
  1863年10月12日、天誅組を中心とする討幕派の尊王攘夷派志士
  たちが銀山のある生野の代官屋敷を襲った。
  農民などもこの乱に加わり、最終的に2000人余りの乱軍となった。
  天誅組の横暴を抑えに走った平野国臣は、逆に乱に参加し、
  七卿に総大将に就いてくれるように頼む。それに七卿の一人
  沢宣嘉が応じて乱の総大将となった。
  しかし、周辺の諸藩が鎮圧軍を派兵してきて乱もまもなく鎮圧された。
  国臣は沢宣嘉を逃がしたが、自分は捕まり、反乱者として京都の
  牢屋に投獄され、後に斬られた。

□愛加那-あいかな
  西郷隆盛が奄美大島の竜郷村(たつごうむら)へ流された時、隆盛は
  その村の娘・愛加那と結婚した。
  菊次郎と菊子の二人の子供をもうけた。
  明治になって、西郷はこの二人を手元に引き取っている。
  後に菊次郎は東京都知事になった。

□天狗党-てんぐとう
  1863年8・18の政変で失速した尊王攘夷派は、勢いを盛り返そうと
  必死になった。
  水戸藩の尊王攘夷派は、藤田東湖の子・藤田小四郎らが中心
  となって活動し、”天狗党”と呼ばれる組織を作り上げた。
  ※”天狗党”は、尊王攘夷を達成するためと称して、軍資金調達の
    のために各地の大商人の屋敷を襲い、盗賊行為を働いていた。
    そのため、人々から悪事を専横する天狗に準えて、”天狗党”と
    呼んだ。
  1864年春、天狗党は筑波山で兵を挙げた。これを鎮圧すべく水戸藩や
  幕府が軍隊を派兵。激戦となった。
  北関東で戦っていた天狗党は、秋になると京都へ上り、自分たちの
  考えを朝廷に聞いてもらおうと考え、10月末、総勢800人の天狗党は
  中山道(なかせんどう)に入った。
  天狗党は水戸藩士が大部分を占めていたため、水戸藩主の子・一橋
  慶喜が朝廷を守る責任者になっていたことから頼りにしていた。
  沿道の藩は天狗党を恐れてそのまま見過ごしてきたが、美濃国で幕府
  軍に行く手を阻まれた。
  そこで天狗党は北上し、12月北陸に入った。寒さと大雪、飢えに苦しみ
  ながら京都を目指したが、頼りにしていた一橋慶喜が幕府軍総大将と
  して天狗党殲滅のため攻撃してきた。
  天狗党はまともに戦うことも出来ずに降伏。結果、400人近くが斬られ、
  400人以上が島流しにされた。また、天狗党の家族も同罪とされ、老人、
  子供も斬られたり、島流しの処分となった。
  こうして、かつては時代の栄華を誇った急進的な尊王攘夷派も1864年の
  暮れまでにみじめな状況と化してしまった。

□禁門の変-きんもんのへん
  長州藩は、福原越後(ふくはらえちご)、国司信濃(くにししなの)、
  益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)の3家老をはじめ、藩士の
  久坂玄瑞、入江九一、尊王攘夷派の中心的人物・真木和泉(まき
  いずみ)らが大軍を率いて京都に入った。
  1864年7月19日早朝、長州藩兵と幕府軍が京都で戦った。
  久坂玄瑞ら多くの志士が討死したり自刃した。
  長州軍が敗北すると真木和泉ら16人は、京都と大坂の境にある
  天王山で切腹した。
  また、捕らわれていた平野国臣、古高俊太郎は火事騒ぎの中、
  殺された。
  この戦いは皇居の門近く、特に蛤御門の近くで戦争になったので、
  ”禁門の変”、または”蛤御門の変”と呼ばれている。

□三条の橋-さんじょうのはし
  京都市中を流れる賀茂川(かもがわ)にかかる橋。
  禁門の変で焼けた家屋は2万8000戸余りといわれ、河原は
  焼け出された避難民でごった返していた。

□開門海峡-かいもんかいきょう
  長州藩は、対岸の小倉藩領にも大砲を置いて、狭い海峡の両側
  から攻撃するようにしたため、1863年から開門海峡は外国船が
  通れなくなっていた。
  1864年、四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩が敗北し、関門
  海峡は再び、外国船が通れるようになった。

□下関砲撃-しものせきほうげき
  1864年8月5日、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合
  艦隊が長州藩の砲台に弾丸を浴びせ破壊。
  さらに水兵が上陸し、火薬は全て火をつけ破壊し、砲弾は海中に
  投げ込んだ。長州藩が設置した60門の大砲を持ち帰るという戦果
  を挙げて引き上げた。

□海軍操練所-かいぐんそうれんじょ
  幕府から資金を得て、勝海舟が神戸に作った学校。
  軍艦を動かして大砲をうつだけでなく、広く海外の知識や世界の
  動向までも教えた。
  幕府の学校でありながら、尊王攘夷派の者さえここで学んだ。

□長州藩庁-ちょうしゅうはんちょう
  長州藩では、藩庁が萩と山口の2ヶ所にあり、幕府側につく保守派が
  力を得ると長州藩主は、萩に移り、高杉晋作ら尊王攘夷派が権力を
  得ると長州藩主は山口に移った。

□海援隊-かいえんたい
  坂本龍馬が長崎に作った貿易会社。
  西国諸藩で必要な物資や武器を、藩から藩へ船で運び、運送料を
  もらっていた。

□セポイの反乱
  反乱はインドの3分の2の地域に広がったが、イギリス軍に鎮圧された。
  こによって、ムガール帝国が滅び、インドは完全にイギリスの植民地
  となった。

□ええじゃないか
  ”ええじゃないか”という奇妙な踊りは、軍隊がいる京阪神(けいはんし
  ん)地方を中心に、東海道を伝わって横浜や江戸方面にのび、中山道
  では松本(長野県)や甲府(山梨県)、さらに会津(福島県)に飛び、
  南では、伊勢(三重県)、さらに淡路島(兵庫県)を経て四国の徳島へ
  と広がっていった。
  奇妙な踊りとともに「ええじゃないか、ええじゃないか、くさいものに紙を
  はれ、破れたらまたはれ、ええじゃないか、ええじゃないか」という掛け声
  を発し、人々は昼も夜も踊り狂ったという。

□見廻組-みまわりぐみ
  坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した七人の刺客が所属していた組。
  一時期、見廻組の犯行とは判らず、新選組の仕業だと思われていた。
  京都見廻組の佐々木唯三郎(ささきたださぶろう)、今井信郎(いまい
  のぶお)、高橋安次郎(たかはしやすじろう)、桂隼之助(かつらはやの
  すけ)、土肥仲蔵(どひなかぞう)、桜井大三郎(さくらいだいさぶろう)。
  この七人が実行したといわれている。

□王政復古-おうせいふっこ
  1867年12月9日、”王政復古の大号令”が出され、鎌倉時代から約
  700年間は武家が政治を動かしてきたが、それを止めて、昔通り、
  天皇が政治を動かすようにした。
  幕府と将軍をなくし、朝廷が政治を執り行う。
  朝廷では、これまでの役職を全て無くし、新しい役職を設けるという
  内容だった。

□短刀一本あれば
  1867年に開かれた小御所会議で山内容堂が新しい政府に元将軍の
  徳川慶喜を役職につけるべきと提言。
  会議の場に慶喜を呼ぶべきなどと幕府よりの発言に薩摩、長州側が
  反論し、会議は大荒れとなりなかなか話がまとまらなかった。
  会議の休み時間に会議の成り行きを心配した一人が御所警護の
  司令官を務めていた西郷隆盛に報告すると、西郷は「短刀一本あれば
  、かたづくことではないか。」といい、岩倉具視、大久保利通にそう伝える
  ようにといった。
  岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん)を通して、岩倉具視に西郷の言葉
  が伝えられた。この死をもっての決意に驚いた土佐藩士・後藤象二郎は
  、主君・山内容堂を説いた。
  この一件で小御所会議の大荒れは静まり、話はまとまったという。

□国学-こくがく
  江戸時代の中ごろから起こった学問で、『日本書記』『古事記』『万葉集』
  などにより、仏教や儒教など、外国の知識が入ってくる以前の日本人の
  考え方を研究しようとした。

□西郷の大謀略-さいごうのだいぼうりゃく
  1867年、徳川慶喜が大政奉還を申し出ると、討幕派は幕府を討つ理由
  がなくなった。
  そこで西郷隆盛は薩摩藩士・益満休之助(ますみつきゅうのすけ)らに
  命じて江戸に差し向けた。
  この時、相楽総三(さがらそうぞう)という人物に協力を仰いでいる。
  相楽は江戸生まれで各地の志士たちと親しかった。
  江戸薩摩藩邸に着くと相楽の呼びかけで続々と討幕の志士たちが
  集まってきた。
  相楽と益満はこれら志士を引き連れて、江戸市中の商人屋敷
  などに押し入り、薩摩藩の者だと告げては金品を奪った。
  旧幕府の幕臣や佐幕派の志士たちを怒らせて、戦争の口実を作ろうと
  したのである。
  相楽と益満のこの強盗行為を見て見ぬ振りをしていた佐幕派たちも
  江戸市中の警備に当たっていた庄内藩の詰め所に薩摩屋敷の浪人
  が鉄砲を撃ち込んだ。
  これには幕府の役人や庄内藩士たちが激怒し、1867年12月25日早朝、
  幕府側の庄内藩兵約2000名が薩摩屋敷を取り囲んだ。
  庄内藩の詰め所に鉄砲を撃ち込んだ者を引き渡せと要求したが逆に
  薩摩藩側の者が庄内藩兵へ大砲を撃ち込んだ。
  こうして戦闘の火蓋が切って落された。薩摩藩からは150人ほどが
  飛び出してきて庄内藩兵と斬り合いとなった。
  薩摩藩側は多勢に無勢で50人ほど斬られて敗退。
  益満休之助らは捕らえられたが、相楽総三ら約30人は沖で待っていた
  薩摩藩の汽船で逃げた。
  この汽船を幕府の軍艦3隻が追尾してきて大砲を撃ったが、逃げられた。
  こうして、旧幕府側を怒らせて、戦争に差し向けるという西郷の策略は
  成功することとなる。

□明治維新-めいじいしん
  いつからいつまでを明治維新の時期とみるか、人によって考え方が違う
  が、ペリー来航から西南戦争までをいうことが多い。
  幕末維新(ばくまついしん)という言い方もある。

□ザンギリ頭
  ”ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする”とうたわれたように
  ちょんまげを切るのが新時代の風潮となった。

□苗字対当-みょうじたいとう
  これまで名字を持つのは武士や一部の特別な人に限られていたが、
  明治政府は、全ての人に名字を名乗らせた。
  急に名字をつけてもよいといわれ、困った人も多かった。
  一つの村が全部同じ名字をつけたり、動物の名前をつけたりと
  いろいろと混乱も起こった。

□薩摩隼人-さつまはやと
  薩摩藩の武士は、武術に励み、気性も激しく、”薩摩隼人”と呼ばれた。
  薩摩には示現流(じげんりゅう)という独特の剣法があり、武術を磨く
  のに熱心な土地であった。
  幕末維新の時、薩摩の人は激しい闘志を見せ各地を走り回った。

□竹槍でドンとつきだす二分五厘
  1873年7月、明治政府は地租改正(ちそかいせい)という新しい税の
  仕組みを発表した。
  まず、土地の持ち主を決め、次にその土地の値段を決める。
  その値段の3分(3%)を持ち主が税金として収めるというもの。
  それまでの収穫物ではなく土地に税金をかけたのである。
  この税金を地租(ちそ)といった。
  税金の割合を全国一律均等にしたこの制度は、豊作でも不作でも決
  まった税金を毎年政府が徴収できるようにしたものである。
  こうして、当時の明治政府の税金徴収のうち、地租が82%を占めた。
  貿易にかけた税金(関税)は二番目の徴収額となったがわずか3%で
  あったことからも地租税が明治政府の生命線であったことは間違い
  ない。
  しかし、民衆の不満は次第に拡大し、1876年(明治9年)になるとあち
  こちで一揆が起こり、規模も拡大した。
  木戸孝允や大久保利通は心配し、地租を減らすことを決め、1877年1月
  地租の割合は、2分5厘(2.5%)になった。
  これを農民の勝利と称え、”竹槍でドンとつきだす2分5厘”という詩が
  流行った。

□もう、ここらでよか
  1877年西南戦争を起した西郷隆盛は、熊本の北の田原坂(たばるざか)
  で官軍と最後の激戦を繰り広げた。
  弾薬も尽き、官軍の強さの前に敗退した西郷軍は、鹿児島に退却した。
  鹿児島に着く頃には、30名ほどになっていた西郷軍は、城山に立てこ
  もり最後の抵抗を見せた。
  同年9月24日、官軍の総攻撃が行われ、激戦の中、足を打たれた
  西郷は歩けなくなり、「もう、ここらでよか」とそばにいた別府晋介に
  言い、切腹して果てた。

□安政の大地震
  1855年10月、江戸を中心に大地震が起こり、7000人以上の死者を出
  した。このとき、水戸藩の藤田東湖が建物の下敷きとなり、圧死した。



  
□公卿-くぎょう
□琉球-りゅうきゅう
□日米和親条約-にちべいわしんじょうやく
□松下村塾-そうかそんじゅく
□シーボルト
□ハリス
□アロー号事件
□不平等条約-ふびょうどうじょうやく
□一橋派-ひとつばしは
□尊王攘夷論-そんのうじょういろん
□幕府最初の使節団
□咸臨丸-かんりんまる
□桜田門-さくらだもん
□桜田門外の変実行犯十八名
□公武合体策-こうぶがったいさく
□寺田屋
□寺田屋事件-てらだやじけん
□生麦事件-なまむぎじけん
□賀川の手首-かものてくび
□京都守護職-きょうとしゅごしょく
□将軍・徳川家茂の上洛
□賀茂神社-かもじんじゃ
□奇兵隊-きへいたい
□孝明天皇の考え
□8月18日の政変
□七卿落ち-しちきょうおち
□十津川郷士-とつかわごうし
□生野の乱-いくののらん
□愛加那-あいかな
□天狗党-てんぐとう
□禁門の変-きんもんのへん
□三条の橋-さんじょうのはし
□開門海峡-かんもんかいきょう
□下関砲撃-しものせきほうげき
□海軍操練所-かいぐんそうれんじょ
□長州藩庁-ちょうしゅうはんちょう
□海援隊-かいえんたい
□セポイの反乱
□ええじゃないか
□見廻組-みまわりぐみ
□王政復古-おうせいふっこ
□短刀一本あれば
□国学
□西郷の大謀略
□明治維新-めいじいしん
□ザンギリ頭
□名字対当-みょうじたいとう
□薩摩隼人-さつまはやと
□竹槍でドンとつきだす2分5厘
□もう、ここらでよか