清河 八郎  1830-1863
(きよかわ はちろう)


庄内藩郷士の子。
名は元司(もとじ)。
□1830年、十月十日。出羽国庄内田川郡清川村の
  斎藤治兵衛豪寿(じへいひでとし)の長男として
  誕生。母は亀代。
□八郎の父・斎藤豪寿は、教養人にして大庄屋格であり、
  苗字帯刀を許されていた。
□1834年、天保の大飢饉が起こり、庄内藩は、大凶作
  となった。それでも年貢米の徴収は厳しく行われ、
  斎藤家の蔵から預かり米が強奪されるという事件が
  起きる。三歳ほどだった八郎は、犯行現場を見ており、
  八郎の話から事件が解決した。
  幼いながら八郎の明敏さに周囲の者が驚いた逸話である。
□1837年ごろから八郎は勉学に励む。
□1844年、八郎は14歳で清川関所役人・畑田安右衛門に
  師事して勉学に励む。
□1846年、五月。藤本鉄石が庄内藩を訪れる。
  鉄石は備前鴨方藩士で学問・剣術・兵法に長じた逸材であり、
  八郎も鉄石から多くを学んだものと思われる。
□1847年、八郎は、江戸遊学を決意し、古学派の東条一堂に
  師事する。その厳しい学風に耐えながら勉励し、東条塾塾頭の
  名誉を得るがこれを固辞。安積艮斎(あさかごんさい)に転塾する。
  のちに昌平學(幕府直轄の学校)で学ぶようになる。
  東条塾の西隣には有名な北辰一刀流道場・玄武館があり、八郎も
  そこで北辰一刀流を熱心に学んでいる。
  文武両道を学べる環境の中からは、清河八郎の他に八郎と義兄弟
  の契りを交わしたのちの天誅組軍師・安積五郎や土佐藩士・
  間崎哲馬(まさきてつま)など雄才が輩出している。
□1860年、三十歳にして江戸神田に清河塾を開講する。
  文武両道を教え、得意な書道も教授した。
□1861年、二月。清河八郎を盟主とする尊王攘夷党・虎尾の会(こびのかい)
  が結成され、山岡鉄太郎、伊牟田尚平(いむたしょうへい)らが参画した。
  清河らはまず、会の活動として横浜外人居留地の焼き討ち計画を立てる。
  同年五月、会の帰路についた清河に罵声を浴びせ喧嘩を売ってきた郎党を
  清河が斬り捨てる事件が起きた。居留地焼き討ち計画を知った幕吏の策略
  だったともいわれるが、この事件を境に清河の同志や実家に弾圧の手が
  伸びる。八郎の妻・お蓮までも役人の取り調べ、拷問を受けるという
  事態になり、清河は進退窮まって江戸を引き払い京都に潜伏する。
  一期開成を目指して、京都挙兵計画を田中河内介と立て、九州へ同志集め
  の旅へ出る。
□九州にて真木和泉、平野国臣らの尊王攘夷運動に
  参画。後の新徴組。
□仙台藩の同志・桜田良佐(さくらだりょうすけ)とも連絡をとり、東北諸藩にも
  京都挙兵計画に参画する内約を得た清河は、徐々に計画実行の実現に
  近づく。
  しかし、薩摩の内紛・寺田屋騒動によって、計画はもろくも座礁することとなる。
□この事件以来、幕府は尊攘の取り締まりを緩め、懐柔統制へと政策転換を
  行った。一度は挫折した清河も、この時代の転機に対して俊敏に反応した。
  松平春嶽に急務三策を上書したのである。
  急務三策の内容は、@攘夷の断行、A大赦の発令、B天下の英材の教育の
  三つであり、幕府は攘夷派志士の横行鎮圧の打開策として採用することとなった。
  浪士組の結成とその人員募集である。
□1863年、浪士組の頭領として各隊長の任命や人員編成に取り組んだ清河は、
  250余人を率いて京都に入洛した。京に入った清河は、壬生の新徳寺本堂に
  浪士組を集結させ、浪士組の目的を将軍警護から尊王攘夷の先鋒へと目的変更
  を告げた。尊王攘夷宣言に近藤勇ら佐幕派隊士らのひんしゅくを買う一方で、
  建白書を作成。朝廷に受納する。関白・鷹司政煕(たかつかさまさひろ)より達文
  とそれに添えられた御製も賜った。
  この幕府への裏切り行為とも取れる清河の行動に激怒した佐幕派の近藤勇らは、
  清河暗殺を断行するが失敗に終る。
□幕府は清河の勝手な行動に憤慨し、急きょ江戸への帰還命令を出す。
  近藤勇ら佐幕派隊士30余人と決別した清河は、200余人を率いて江戸に帰還。
  京都での独断行動で幕府と対立を深めた清河は、1863年四月十三日幕府の
  刺客・佐々木只三郎ら七名によって、麻布一ノ橋のほとりで惨殺された。享年34。
  清河八郎暗殺後の浪士組は悲惨であった。浪士組幹部・高橋泥舟、山岡鉄舟、
  松岡万(よろず)らは処罰され、浪士組本隊も新徴組と改名され庄内藩預かり
  処置となる。
□著書に旅日記<西遊草>がある。