≪場所≫ 福岡市

幕末動乱の藩主は、福岡藩11代目藩主・黒田長溥
(くろだながひろ)である。
ペリーが日本に来航すると諸藩はこぞって、攘夷論に
沸いたが、その中でただ一人、もはや永久鎖国の時代
は閉幕にあると側近に述べたという開明の士であった。
諸外国と貿易することで日本を富ます積極外交の考え
を示すなど開明的な開国論者だった。

長溥は開明な思想を持ち、外国の進んだ文化を自ら
熱心に修得しており、諸藩の間では、”蘭癖大名(らん
ぺきだいみょう)”との評判を得ていた。

福岡藩主・黒田長溥は開国論を支持し、幕府が目指す
公武合体策を擁護して、佐幕派の一角を担った。

しかし、藩内には、兵学者・月形洗蔵(つきがたせんぞ
う)、黒田家重臣・加藤司書(かとうししょ)らが中心とな
って、組織する筑前勤王党(ちくぜんきんのうとう)が
あった。

月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を
中止して、”ご忠義の軍勢にて、天下の魁(さきがけ)を
なせ!”と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を
藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。

1861年(文久元年)5月、藩主・長溥は、過激な尊攘論を
展開する月形らを藩政誹謗(はんせいひぼう)の罪で
捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他
二十数名も厳しく処断した。
世にいう”辛酉の獄(しんゆうのごく)”である。

一時は藩論を尊攘派から開国・公武合体派で固めた
藩主・長溥ではあったが、京都に跋扈(ばっこ)する
強硬尊攘派たちによって、攘夷実行が実現すると
福岡藩の藩論も勤王派に傾いた。

時の将軍・徳川家茂(いえもち)が朝廷より勅許を受け
て、攘夷運動が決行される運びとなると、福岡藩は
いったんは処断した勤王派の藩士たちを解放せざる
を得なくなる。
息を吹き返した筑前勤王党は、再び過激な尊攘論を
展開するようになった。

第一次征長が勃発すると幕府は、長州藩追討の任務に
長州藩と近隣にある福岡藩に白羽の矢を立てた。
福岡藩は長州征討の最前線に出て戦う羽目と成った。
だが、福岡藩士たちで結成された筑前勤王党は長州藩
支持に回り、激しい抗争が起こる。
月形や加藤らは、征討阻止の工作に奔走し、征討軍の
妨害を行った。さらに月形らは、進んで長州藩援助の
姿勢を見せ、長州藩征討の任務を帯びた福岡藩と拮抗
することとなった。
この勤王派福岡藩士らの動きを見た藩主・長溥は、
幕府にとがめを受けてはまずいと考え、長州藩に対して
、謝罪や恭順の姿勢を幕府に示すよう働きかけた。

長溥らの斡旋によって、長州藩首脳部は、幕府に恭順
する意向を示し、福岡藩はその処理に当たった。
長州藩に身を寄せていた過激な尊攘派公卿たちの身柄
を福岡藩が引き受けることとなった。
8・18の政変で京都を追い出された公卿7名は、長州藩
に身を寄せて、再起を目指していたが、錦小路は病死
し、沢は生野で挙兵したが鎮圧され、この世を去って
いた。
そのため、残った公卿5名を福岡藩が身柄を預かり、
彼らを太宰府(だざいふ)に移した。

幕府の征長戦で様々な役目を担った福岡藩ではあった
が、幕府は福岡藩を快く思ってはいなかった。
勤王福岡藩士たちが万事、福岡藩のイニシアチブ(※
主導権)を執ったことで、長州藩に同情的な態度を示し
ていると幕府には映ったのである。
藩主も勤王福岡藩士の活動に歩調を合わせる形を
とっていたのだから仕方がないが、”長州同気(どうき)”
と決め付けられたのだから、たまらない。
幕府のために骨身を惜しまず働いたのに、逆に幕府に
疎んじられるとは思いもよらず、西国諸藩は、第一次
征長戦後、幕府の態度に対して、悪評を持つように
なった。

第一次征長後には、福岡藩も幕府に追討されるとの
風評さえ、飛んでくる始末であった。
このため、長溥は勤王福岡藩士たちの弾圧を決意し、
1865年(慶応元年)6月、勤王派の藩士たちをことごとく
捕らえて、枡木屋(ますきや)の獄に入れ、勤王派の
活動を鎮圧した。

次いで、加藤ら7名を切腹に処し、月形ら14名を斬首と
し、苛酷なまでの断罪を敢行した。
その他に勤王派の関係者や支援者なども流刑や幽閉
に処された。中には女流歌人・野村望東尼(のむらも
とに)も入っていた。
望東尼は、福岡藩士・野村貞貫(のむらさだつら)の妻
で、夫の死後、剃髪(ていはつ)して、尼となっていた。
夫とともに歌人の誉れが高く、国学もよく修めて、勤王
の志をよく理解していた。
それゆえ、京都で村岡局(むらおかのつぼね)※近衛家
の老女らと和歌の贈答をしている間に、京都に集まる
勤王の志士たちと面識を得るようになった。

帰国後は、福岡郊外の地に隠棲(いんせい)したが、
その宅には、平野国臣、月形洗蔵、西郷隆盛、僧月照
など多くの志士たちが出入りした。
中でも高杉晋作は、長州藩から亡命した折、月形の
周旋で望東尼の世話になり、長らく望東尼の家に
住んでいた。

これら危険な尊攘の志士たちと面識を持ち、支援もし
ていた望東尼を福岡藩の弾圧がかかったのである。
玄海灘(げんかいなだ)の孤島に流された望東尼では
あったが、後に第二次長州征伐戦で大活躍を見せた
高杉晋作の知るところとなり、高杉自らが望東尼の救出
に出向くという恩情を得る。

その後、馬関(ばかん※下関)に落ち着いた望東尼
は、重い結核におかされていた高杉を親身になって
看病した。高杉没後、長州藩の行く末を案じて、断食の
祈願を行った望東尼は、体を弱らせ、多くの志士たちが
見守る中、波乱万丈の人生に幕を閉じた。
享年62歳だった。

筑前勤王党を大弾圧した福岡藩は、それまで勤王派の
藩士たちの活動によって、親密な関係であった薩長と
次第に距離を置くようになり、佐幕派の度合いを強め
ていった。
しかし、時代の急変はすさまじく、佐幕派の色合いを
強めた福岡藩に対して、幕府倒壊という急報が届く。
幕府が事実上、大政奉還によって存在が雲散霧消
すると朝廷は、諸藩に対して、勤王か佐幕か、どちら
につくか態度表明を迫ってきた。

西国諸藩で佐幕派を貫くことは困難と判断した福岡藩
は、今度は家老たちを勤王派藩士たち弾圧の首謀者
として、責任をとらせて切腹させ、朝廷に対して申し開
きを行った。
時代の波に乗れず、幕府に終始、振り回された福岡藩
は、九州諸藩の中では遅れを取る形となった。

佐幕派から勤王派へと鞍替えをした福岡藩は、戊辰戦
争に参軍し、2300人余りの軍兵を出した。
この福岡藩軍には、「勇敢隊(ゆうかんたい)」という
博徒(ばくと)や山伏など寄せ集めの集団が数百人
編成されていた。

これら武士ではない礼儀作法の知らない烏合の衆を
率いていたためか、福岡藩の部隊はすこぶる官軍
の中では評価がよくなかった。
そのため、弾よけ代わりと称して、いつも最前線に
配置されていたという。

このような福岡藩軍を率いていたのは、”勇敢仁平(
ゆうかんじんぺい)”と賞された侠客(きょうかく)・大野
仁平(おおのじんぺい)であった。
参謀には太宰府天満宮の神職・三木隆助(みきりゅう
すけ)である。
福岡藩軍は、勤王派のすぐれた人物がほとんど藩の
大弾圧を受けてしまい、意気軒昂な者が少なかった。
そのため、戦好きや喧嘩好きなどの雑多な人物ばかり
を集めた集団であったため、官軍の中でも悪評が高か
ったのである。

上野の彰義隊戦争から箱館戦争まで転戦した福岡藩
軍であったが、官軍に参加する他藩から非難を浴び、
参謀の三木は有能な人材だけあって、苦悩したという。
三木は国学をよく修得し、武芸にも秀でた逸材であった
が、戊辰戦争後の感想を「この戦争くらい辛くていやな
思いをしたことはない」と当時の苦境をもらしている。

幕末動乱の時代にあって、諸外国の力量の真価を知っ
ていた福岡藩主・黒田長溥の開明的な開国論は実に
利にかなっていた。
しかし、西国諸藩の中で佐幕派の筆頭として幕府から
強い指令を受けていたことが大きな災いとなった。
幕府の無謀な討伐戦や強い弾圧の対象となったことで、
多くの勤王の逸材を処断せねばならなかったことは、
悲運としか言いようがない。
幕府の急な大政奉還によって、佐幕派から勤王派へと
旗色を変えねば成らなくなり、後からついてきた寝返り
者との悪評が付きまとった。
願わくば、逸材の有効活用が成されれば、西国諸藩の
中でも屈指の雄藩として、その存在を示せたことを思うと
惜しい藩であったといわざるを得ない。