久留米藩(くるめはん)
≪場所≫ 久留米市


久留米藩士で幕末に活躍した人物に真木和泉(まきいず
み)がいる。過激な勤王論者として幕末に一石を投じた
人物である。
藩校きっての秀才であった真木は、幕末動乱の表舞台
に登場したのが51歳のときであった。
多少、狂信的な論調で説く尊攘演説は、若い志士たちを
大いに勇気付けるものであった。
志を持つ若者を鼓舞、傾聴させる真木を人々は、”今楠公
(いまなんこう)”と賞賛した。

1852年(嘉永5年)、久留米藩の家老となった真木は、
藩政改革を推し進めたが、失敗に終り、”忠誠は厚いが
妄言(もうげん)が多く、藩政の妨げになっている”との
悪評を浴び、無期禁獄となる。

真木は失意して、”山梔窩(くちなしのや)”と名づけた
場所に11年の蟄居生活を送った。
謹慎処分の間、『大夢記(だいむき)』『義挙和文(ぎきょ
わぶん)』『義挙三策(ぎきょさんさく)』などを著し、尊攘論
に細やかな理論を肉付けし、意義を深めた。
また、来訪した平野国臣らとともに志士たちの結集に
尽力した。

1861年(文久元年)2月、ロシア軍艦が対馬の一部を占拠
するという尊攘論者たちにとっては、驚くべき出来事が
起こった。
ついに日本もインドや中国の清国のように欧米諸国の
侵害をこうむったか!と、尊攘派志士たちは肝を冷やし
ていた。
これを契機に久留米藩内でも尊攘派の活動が盛んと
なり、真木は尊攘派の代表として、西国雄藩の筆頭格
である薩摩藩に乗り込んだ。
薩摩藩主・島津久光を攘夷強硬に踏み切らせるため
説得しようと真木は赴いたのであった。

さらに真木は、尊攘派の巣窟(そうくつ)となっている
京都に乗り込み、同志たちを鼓舞して、攘夷決行の
強硬を推し進めた。
だが、真木たち尊攘派たちの運動は、同じく京都に
乗り込んで来ていた島津久光の怒りを買うことと成る。
寺田屋事件が勃発し、尊攘派の新たな親玉と思われ
ていた島津久光が、断固拒否する姿勢を示したのだ。

真木たち強硬な尊攘派たちはたちまち京都から追い
出され、真木自身は国元へ強制送還されてしまう。
その後、罪を許された真木は、再び京を目指し、途中で
長州藩に立ち寄り、桂小五郎に会った。
その時、示したのが有名な”五軍献策(ごぐんけんさく)”
である。
「攘夷の主導権を朝廷が握って、外夷親征(がいいし
んせい)の名の下に討幕の実を挙げる」と述べ、攘夷
親征を行おうというのである。この方策を聞き知った
長州藩士たちは、これに賛同するものが多く出た。

さらに真木は、自らが著した『義挙三策』の中で謳い
あげている方策も語った。
海路から大坂城を攻め落とし、別働隊をもって京都に
進入し、幕府軍の屯所(とんしょ)を焼き払い、京都を
抑える。
ついで、ゲリラ戦を展開し、神出鬼没のかく乱戦を幕府
軍に仕掛け、湖東(ことう)に至って、東山・北陸道を
防ぎ、幕府軍の西下を阻止する。
後は態勢を整えて、西国雄藩を駆って、攘夷と討幕を
両方いっぺんに遂行しようというものである。

この周到な机上の演習には、長州藩士たちも大いに
感嘆し、真木らは朝廷内でもこのような強硬論を展開
して、尊攘断行の事業を推し進めた。

1863年(文久3年)8月12日、その日の真木の日記に
は、「国事参政の方から攘夷親征の大挙を告げられた。
まったく、喜びのかぎり」と国政を我が手が牛耳る想い
で、大いに興奮した面持ちが記されている。
かねてから願っていた攘夷祈願のための大和行幸の詔
(みことのり)も実現まじかとあって、この時が真木の絶頂
期であったろう。

しかし、8・18の政変が勃発し、協力者の公卿7名ととも
に京都より追い出される形となる。
天誅組や生野の乱など挙兵を起こしたが、全て失敗に
終り、さらに池田屋事件で完全に尊攘派の勢いは鎮圧
されてしまう。
苦境に立たされた尊攘派たちは、無謀にも長州藩軍兵を
動員して、京都奪回を目論む。
禁門の変が勃発し、政権争奪戦の死闘が繰り広げられた
が形勢挽回の願いは実らず、大敗に喫す。
真木は、久坂玄瑞らと300名の浪士隊を率いて、山崎に
布陣していたが、さらに京都宮中近くまで進軍し、鷹司
邸にたてこもって、抗戦したが戦況不利を悟ると囲みを
破って、天王山に敗走した。

真木自身も負傷し、槍に杖にしてようやく追っ手を振り
切ったが、もはや手負いとあっては逃亡もかなわず、
西国にて再起することを諦め、その場に残った浪士16名
ともども自刃する覚悟を決めた。

真木たちは、山上から木々に幔幕(まんまく※式場などに
長く張りめぐらす幕のこと。)を張り巡らした
真木たちを包囲する軍勢に対して、真木は武具を着けず
、金色の烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)を着た姿で
現れ、何か大きな声を発して、朗々と詩歌を吟じたという。
やがて、その姿が幕内に入って見えなくなると、包囲する
軍勢が一斉攻撃を開始。
山上より火の手が上がり、真木らは猛火の中に身を
置いて死した。1864年(元治元年)7月21日のことで
あった。真木は享年52歳であった。

この時、真木とともに自刃した久留米藩出身者は、5名で
あった。尊攘派の志士たちを大いに鼓舞し、強い意義
を根付かせた真木の功績は多大なものがあった。
しかし、尊攘という強い論拠に縛られすぎ、時代の趨勢
の岐路を見極めきれなかった。
真木の死は、単純な尊攘派の考えでは、もはや国政を
動かす力はないことを悟らせることにつながった。
この後の志士たちは、諸外国とは、あくまでも外交によっ
て折り合いを付けつつ、討幕という路線を見出せたのも
真木の提案した幕府へ拮抗する方策の影響が見える。
その意味で、真木の果たした役割は、尊攘派から討幕派
への思想移行へとつながる重要な杭の役割であった
といえよう。