唐津藩 (からつはん)
≪場所≫ 唐津市
幕末動乱になり、唐津藩からは二人の逸材が輩出
された。水野忠邦と小笠原長行(おがさわらなが
みち)である。
水野忠邦は、19歳で唐津藩主となったが、当の本人
は幕府老中となることを夢見て、自ら望んで浜松へ
転封した。
唐津藩6万石とされるも、実収は20万石以上といわ
れるのに、忠邦は浜松5万石を選んだのである。
それには理由があった。
唐津は諸外国に接する要衝の地・長崎に近く、長崎
警護の役目があり、幕府老中への出世コースから
外れる恐れがあった。
そこで、唐津藩を捨て、江戸に近い場所に所領を
もって、幕府重職に就こうとしたのである。
忠邦は大坂城代から京都所司代へと出世し、1834
年(天保5年)には、念願の江戸城本丸老中に昇り
つめた。
11代目将軍・徳川家斉(いえなり)が存命の間は、
忠邦の手腕は発揮されなかったが、家斉が没し、
12代目将軍・徳川家慶(いえよし)の代になると、
”天保の改革”を断行した。
忠邦は、人事刷新(じんじさっしん)、文武奨励、厳
しい贅沢禁止(ぜいたくきんし)と改革を次々と断行
した。
余りの厳格な改革のために将軍・家慶でさえ初物
禁令のために好物の生姜(しょうが)を食べられな
かったほどだった。
政策的実利は、かなっていてもあまりにも厳格す
ぎる改革は、多くの批判者を出し、2年余りで失敗
に終った。
強圧すぎる制度に対する反感は強く、忠邦は老中
を罷免され、幕府の改革は頓挫した。
その後、忠邦は再び老中へ返り咲いたが、周囲の
反感は根強く、登用した人材の不正をとがめられ、
まもなく老中職を辞任した。
隠居謹慎(いんきょきんしん)の処分を受け、継嗣
は2万石減封のうえ、山形へ移封となった。
改革推進の強い姿勢は、完全に反感者たちによ
って、弾圧された形となった。
次に唐津藩から出た逸材が小笠原長行である。
長行は藩主・小笠原長国より三代前の藩主の次男
で、藩主候補に上がっていたが、わずか2歳で候補
から遠ざけられ、世に出る機会を失っていた。
だが、すぐれた才覚を現した長行は、聡明な逸材と
の評判が立ち、幕府の内旨(ないし)によって、
唐津藩主の継嗣となった。
長行は唐津藩主・小笠原長国(ながくに)の養子
になり、そのすぐれた能力で難局続きであった欧米
諸国との外交問題に対処することを期待された。
外交の要衝の地である長崎に近い、佐賀藩・福岡
藩の二大藩の武力を持ってこれを防衛し、譜代で
ある島原藩・唐津藩の二藩にて、さらなる監督・監
視を行う仕組みとなっていた。
幕末になり、日本近海には欧米諸国の船が盛んに
往来するようになり、ますます、重要な地点として
幕府は有能な人材をもって、この難局打開を模索
したのである。
藩政改革などで実績を挙げた長行は、幕府の期待
に沿う人材として移り、土佐藩主・山内容堂の推挙
によって、幕政改革に入閣することとなった。
幕政改革の筆頭は、松平慶永であり、政事総裁と
して、手足となって働いてくれる逸材を探していた。
そのため、世子である長行を特例として幕政に
参加させた。
幕府に出仕するようになってわずか2ヶ月で、若年
寄から老中格に昇進し、外国御用取扱を命ぜら
れた。異例の大出世を果たしたのである。
幕府が長行の事務手腕能力に大きな期待をかけて
いたことがうかがえる。
1862年(文久2年)8月、生麦事件が勃発すると
その被害にあったイギリス側がイギリス代理公使
・ニールをもって、賠償金10万ポンドを幕府に要求
してきた。
10万ポンドといえば、当時の最新式の船を10隻
以上も購入できる莫大な金額であった。それだけに
幕府側も支払いに難色を示した。
これに対し、イギリス側は、12隻の軍艦を横浜に
入港させ、そのうちの2隻は江戸湾近くに進行し、
威嚇行動に出た。
イギリス海軍司令官は「こちら側の要求がいれら
れない場合には、大軍をもって、償いを得るに必要
と思われる処置を取る」と豪語し、一触即発の戦闘
状態となった。
この強硬なイギリス側の行動を見て、驚いた幕府は
戦争回避を優先し、賠償に応じることにした。
1863年(文久3年)5月、幕府老中格・小笠原長行が
独断専行という形を取って、イギリスに賠償を
支払った。
これは、朝廷に対して攘夷を行うと約束した手前、
幕府の意志で支払ったという形は取りたくなかった
ため、老中格の長行が独断でかってに行ったという
形を取ったのである。
幕府が朝廷に上申したのは、5月10日の攘夷実行
期日の一日前とあって、幕府への批判は強かった。
特に独断で賠償を支払った長行への批判は非常に
強いものだった。
14代目将軍・徳川家茂は、徳川将軍として、三代
将軍・徳川家光以来二百数十年振りの上洛を果た
した。攘夷期日を約束しなければ、江戸へは返さぬ
という強硬な朝廷側の圧力により、しぶしぶ攘夷
期日を約束した。
ようやく江戸へ下向できる矢先に、長行が幕府の
汽船5隻と軍兵1600を率いて大坂に上洛してきた。
ついで、京都へ入る動きを見せた長行であったが、
なぜこのような暴挙を行ったのかは不明である。
長行は攘夷論を武力で打ち破り、開明的な開港論
を説いて、欧米諸国との外交一切を掌握しようと
したとする見方や攘夷派を武力で打ち滅ぼし、
将軍・家茂を連れて江戸に帰るつもりであったなど
さまざまな説が挙げられている。
とにもかくにも、幕府老中格の長行が強硬な軍事
行動を起こしたことは、ゆゆしき事であり、強引に
京都に軍勢を率いて入ろうとしたことは、大いに
事態を騒然とさせた。
長行を淀にて強制的に止めると、将軍の命令も
あって、彼の目論みは達成されなかった。
一時、京都を騒然としたこの軍事行動に対し、朝廷
は厳罰をもって、処分することを幕府に求め、長行
は老中格を罷免された。
しかし、1864年(元治元年)、謹慎処分を解かれた
長行は翌年には、再び老中格に復職を果たし、
ついには老中へと昇進した。
この人事を見ても、幕府がいかに長行の才覚を
頼りにしていたかがわかる。
1866年(慶応2年)6月、第二次征長が起こると、
長行は九州方面の幕府軍総督となり、小倉に赴任
した。
しかし、長州軍を率いる高杉晋作・大村益次郎らの
活躍にて、幕府軍は方々で敗戦し、長行も小倉に
進軍してきた長州軍にはかなわず、密かに脱出し
て、難を逃れるほどであった。
小倉城も敵に落とされる不名誉さを恥じて、城兵の
手によって、火が放たれ落城した。
この敗戦によって、長行は謹慎・逼塞(ひっそく)の
処分を命ぜられたが、一ヶ月もたたないうちに許さ
れて、老中職に返り咲いている。
三度老中職に就いたのは、長行だけであった。
この異例の人事からも、長行が当時の幕府にとって
欠くことのできない人材であったことがわかる。
戊辰戦争では、奥羽列藩同盟が成立したことを聞き
、江戸を脱して、会津の地を経て、榎本武揚とともに
五稜郭(ごりょうかく)で共和制の独立国を設立した。
箱館戦争後、長行の行方は知れなかったが、のちに
東京に戻って余生を送っている。
水野忠邦、小笠原長行と唐津藩輩出の逸材を記した
が、それでは唐津藩そのものはどのようであった
のか。
唐津藩主・小笠原長国は、幕命を帯びて、第一次征
長で藩兵2000余を率いて、参軍。
30隻にもおよぶ船団を率いて出兵した。
長州藩に対し、徹底的に断固懲罰を主張した長国で
あったが、幕府への恭順の意向を示した長州に対し
、軽い処分で終らせた幕府に落胆した。
それにもまして、幕府軍として動員され活躍していた
福岡藩を”長州同気”として、長州藩に同情的である
ことを嫌疑した幕府にホトホトあきれ返ってしまった。
第二次征長では、唐津藩兵は大里(だいり※門司
港)方面を守備していたが、長州軍の奇策にはまり、
あっさりと敗北した。
唐津藩兵の弱体振りをさらけ出した長国は、この後
日和見主義を決め込んでしまう。
特に幕命によって、長国の養子となっていた長行と
の折り合いは悪く、藩内では、大殿派(長国)と若殿
派(長行)に分かれ、戊辰戦争においては、行動の
明暗を分けた。
西国雄藩が跋扈(ばっこ)する新政府に対して、長国
は日和見主義を現し、朝廷からの上京要請にも、
反応せずにいた。
しかし、薩摩藩から「調敵の罪状は免れないだろう
から城を明け渡すように」と脅されるとこれに驚いた
長国は、隣国でよしみのある佐賀藩に取り成して
もらおうとしたが、朝敵の汚名を受けた唐津藩を
擁護することは不可能として、これを断られた。
苦慮した長国は、老中の長行と、唐津藩は何の関係
もないと主張して、戊辰戦争では、藩を挙げて、
朝廷に尽力する旨を伝えた。
また、長行を廃嫡にし、朝廷に翻意なきことを示した
が、朝廷はにわかには信じ難く、長行の切腹、もしく
は、唐津へ連れ戻して”篭居(ろうきょ)”せしめるか
どちらかをするべしと迫った。
長国はこれを了解して、長行を捕らえるべく、江戸に
家臣を派遣したが、危険を察知した長行はいち早く
江戸を脱し、奥羽列藩のもとへ身を寄せていた。
戊辰戦争が東北部へ移ると、唐津藩は鉄砲隊1000
を官軍に参軍させ、軍艦燃料として石炭500万斤を
朝廷に献上した。
これによって、朝廷の怒りも緩和され、ようやく藩の
存続が成ったのである。
終始、幕府側に立っていた唐津藩も福岡藩と同様
に西国にて佐幕派を貫くことは難しく、薩長の弾圧に
最後は必死の対応を迫られることとなった。
また、唐津藩にはもう一人、幕末維新に大いに活躍
した人物がいる。
女性勤王家として有名な奥村五百子(おくむらいお
こ)である。
五百子は唐津の東本願寺派の名刹高徳寺(めいさ
つこうとくじ)に生まれた。
兄とともに長州の高杉晋作や福岡藩の野村望東尼
らと交遊があり、尊攘運動に奔走した。
五百子は最初、寺の住職に嫁いだが死別し、水戸
浪士と再婚して夫婦で国政に携わった。
維新後は、江藤新平や西郷隆盛を支持して、征韓論
を擁護したが、政論は実現しなかった。
この時、五百子は意見を違えた兄を刺殺しそうに
なるほど過激であったという。
その後、夫とも意見を違えた五百子は、離婚して、
熱血漢にも1898年(明治31年)に愛国婦人会を
設立して、女性による政事参加を目指した。