大村藩 (おおむらはん)
≪場所≫ 大村市


幕末動乱が激しさを増す中、1863年(文久3年)、
幕府は反幕府の風潮が強まったことを受け、外様
大名である大村純煕(おおむらただひろ)を長崎
奉行に任命するという異例の人事を行った。
本来は旗本が出世するための要職であったが、
幕政の弱体化にともない外様大名に任せること
となった。

この幕府の人事に驚いた純煕は、病気を理由に
要職を辞退したが、再度任命する指令を受けた。
しかも今度は長崎総奉行というさらなる要職で
あった。
幕府の熱望に折れた純煕は、この困難な政局に
幕政の要職に尽き、一角を担う役目を負った。

幕府から重要な職務を請け負った大村藩は、佐幕
派が藩内を統制することとなった。
その筆頭が佐幕派の大村藩家老・浅田弥次右衛
門(あさだやじえもん)であった。
浅田は藩内を我が物顔で専横する尊攘派を弾圧
し、藩内の統率を図った。

大村藩では、前々から長崎や江戸へ遊学した
藩士たちによって、尊攘思想が浸透していた。
京都や大坂の有志たちとも国事に関する交遊が
盛んであった。
彼ら尊攘派藩士たちは、結束を固めて、針尾九
左衛門(はりおきゅうざえもん)を盟主とする改革
断行を主張し、『三十七士同盟』が誕生した。

1864年(元治元年)、純煕は長崎総奉行を辞める
意向を幕府に示した。これには針尾ら改革派の
策謀が糸を引いていた。
ついで、更なる策謀を駆使した針尾ら改革派は、
藩内の佐幕派を一掃すべく、浅田弥次右衛門ら
有力家臣を藩政の中枢から追放した。
この藩政のクーデターを成功させた針尾は藩の
家老となり、尊攘派による改革を断行した。
これが”元治の政変”と呼ばれるもので、一挙に
藩論を尊攘派一色に染め上げた藩内革命で
あった。

『挙藩勤王』を成し遂げた針尾らは、藩の軍制改革
を推し進め、旧式武器を持つ部隊を新たに西洋式
銃隊として編成した。
ついで、藩士の次男・三男を選抜して、『新精組
(しんせいぐみ)』として編成し、この精鋭部隊を
各部隊の先鋒とした。

着々と幕末動乱に対応できる精鋭部隊の編成を
行っていた針尾たちであったが、左遷された佐幕
派たちの恨みを多くかうこととなった。

1867年(慶応3年)1月3日、家臣たちの登城日に
退城しようとしていた針尾ら改革派一行を佐幕派
たちが襲撃した。
この襲撃で改革派の筆頭・針尾九左衛門や藩校
文部館教授・松林廉之助(まつばやしれんのすけ)
が討たれた。
かろうじて、改革派中心人物の一人、渡辺昇(わた
なべのぼる)が助かった。
渡辺は江戸へ遊学し、帰藩後は、藩政に参与し
た優秀な人物であった。
あの坂本龍馬とともに薩長両藩の調停に奔走し、
薩長同盟成立に一役買った功績を持つ。
明治維新後、大阪府知事、会計検査院長などを
歴任した。

改革派の生き残りたちは、渡辺を中心として、敵対
する佐幕派の弾圧に取り掛かった。
藩校・文部館の生徒たちは自ら下手人を逮捕しよ
うと息巻いたが、渡辺はそれを抑え、藩組織を
挙げて徹底究明を行った。
合法的に黒幕の人物を突き止め、自刃に処した。
事件関係者26名も同時に処分した。

この渡辺の的確な処罰によって、藩の統制はより
一層、強まることとなり、好結果をもたらした。
藩内の士気は一層高まり、改革派同盟も意気盛ん
にして、藩の主導権を完全に掌握した。
こうして、大村藩は徹底倒幕へと邁進することと
なったのである。

この事件追求に活躍した有志たちで結成された
のが、『大村十三隊』である。
この部隊は、長州藩の奇兵隊の例にならい、正規
の軍備を整え、『大村藩十三隊』として再編成され、
戊辰戦争にて、大活躍を成した。
大村藩軍は、戊辰戦争にて福岡藩と同盟を結び、
薩長両藩とともに軍事行動をともにし、全国各地を
転戦した。

戊辰戦争後の論功行賞では、第一位が薩長両藩
で、第二位が土佐藩、第三位が大村藩となり、
増石の褒賞を受けている。