島原藩 (しまばらはん)
≪場所≫ 島原市


島原藩は譜代大名であり、佐幕派の思想が強い。
特に幕末においては、島原藩主があの徳川幕府
15代目将軍・徳川慶喜の実弟であったことも手伝
って、藩の上層部は完全に佐幕派一色であった。

そのためか、藩内の下級武士たちは、さまざまな
形で不満を爆発させた。
特に平田篤胤没後の門下生として、漸進的な知識
を修得していた丸山作楽(まるやまさくら)・保田建
(やすだたけし)・石田貞幹(いしださだもと)や、
平田学派の感化を受けた梅村真守(うめむらまさ
もり)・伊藤喜融(いとうきゆう)らは、過激な尊攘
派として、藩内に『激烈組』を結社した。

彼らは藩論を尊攘派に傾け、藩の主導権を奪取
しようと画策したが、藩の上層部はこれをいち早く
察知し、尊攘派たちに弾圧が行われた。

こうした藩上層部の専横なやり方に激怒した尊攘
派たちは、1863年(文久3年)8・18の政変が京都
で勃発すると、過激派尊攘の七卿落ちに呼応して
、島原藩内にて決起した。

この過激派尊攘の志士たちが島原で決起したと
あって、島原藩内はもちろんのこと、近隣の諸藩
にも大きな衝撃と動揺が走った。
なにしろ、かつて島原で起きた反乱は、数万を
擁した大規模な乱であっただけに再び大規模な
反乱が起こったのかと人々は肝を冷やしていた。

しかし、この度の反乱の実体は少人数による決起
に留まっているとの報告を受けると、島原藩は、
藩兵を繰り出して、これを鎮圧した。
反乱に加わった多くの者たちは、船で藩外へと
逃れ、藩内に留まった者たちはことごとく謀反人
の罪で斬首された。

この反乱の首謀者であった梅村と伊藤は、長州へ
と落ち延び、再起を目指して潜伏していたが、後に
関東へと下り、水戸藩の天狗党に参加して、戦死
を遂げた。

彼らと同じく反乱に加わっていた保田と石田、そし
て、尾崎鋳五郎(おざきちゅうごろう)は、逃避行
の末に天誅組に参加した。

一方、島原藩内では、1865年(慶応元年)に激烈
組の生き残りである大竹直記(おおたけなおき)・
川島鼎(かわしまかなえ)・伊藤虎之助(いとうとら
のすけ)・中村端平(なかむらたんぺい)ら四名が
佐幕派の島原藩中老・松坂丈左衛門(まつざか
じょうざえもん)を襲撃して、その首をはねた。
そして、檄文(げきぶん)である「有志斬奸趣意書
(ゆうしざんかんしゅいしょ)」に松坂の罪状を五ヵ
条にわたって記した。
最後の条では、太宰府に移され幕府の監視下に
あった五卿(※長州に落ち延びていった七卿の
生き残り)を逆賊呼ばわりして、『天人共ニ許サザ
ル不遜(ふそん)ノ言動』と記している。

この誅殺(※罪をとがめて殺すこと)事件は、激烈
組の指導者・丸山作楽などが影で指示していた
とされているが、またその背後に藩内の老臣など
の策謀も介入しており、藩内上層部たちの派閥
抗争がからんでいた。

こうした、複雑な抗争劇が藩内を包んでいたため
か、島原藩ではこれ以上の勤王論に盛り上がりが
起きずに明治維新を迎えた。
そして、藩内は結果として、『穏健派』によって、
統合され、戊辰戦争勃発の時期が到来するので
あった。
もちろん藩内を挙げて、新政府側に立ち、官軍に
参軍して各地を転戦したが、格別の功労も挙げず
に戦争終結を見た。