中津藩 (なかつはん)
≪場所≫ 中津市


中津藩は、早くから学問の振興に力をいれており、
幕末までに数多くの学者や文化人を輩出している。

その筆頭に挙げられるのが国学者の渡辺重名(わ
たなべしげな)である。
重名は古麦神社の宮司(ぐうじ)で、本居宣長の門下
生となり、後に宣長十哲の一人に列したほどの逸材
であった。
俊逸な人材として中津藩の藩校・進修館(しんしゅう
かん)の国学教授を務め、数多くの門人を育成した。

こうした逸材養成に貢献した重名は、東九州におけ
る国学の開祖ともいうべき大人物であった。
また、重名は芸術文化の発展にも貢献し、当代随一
の文化人と交流を盛んにした。
三浦梅園(みうらばいえん)・田能村竹田(たのむら
ちくでん※岡藩侍医の子で、文人画家)・帆足万里
(ほあしばんり)・円山応挙(まるやまおうきょ※画家)
・谷文晁(たにぶんちょう※画家)などと深い交流を
行っていた。

また、高山彦九郎(たかやまひこくろう)も中津に
訪れて、重名と深い語らいをしている。
重名の家系はその後、重蔭(しげかげ)・重春(しげ
はる)・重石丸(いかりまる)へと続き、中津藩に
代々、国学を伝授していった。

重石丸は、家塾・道生館(どうせいかん)を開き、
門弟を育成したが、1869年(明治2年)に皇学所
御用掛(こうがくしょごようがかり)となり、上京した
ため、道生館はわずか1〜2年の間だけしか開か
れていなかった。
しかし、このわずかな期間に多くの俊才を育成した
のである。西南戦争で西郷隆盛と合流してともに
戦った益田宗太郎など100名余はほとんどが道生
館の出身であった。
惜しいことに益田ら100名余の逸材は、西南戦争
でその多くが戦死し、その後の歴史の舞台でに活
躍をすることはなかった。

益田宗太郎は幼少の頃より、道生館に入学して、
国学を学び、数多くいる門下生の中でもずば抜けて
学問ができた。
その益田は、佐賀の乱では江藤新平の挙兵に同調
して、同志200名を募り、その一団を率いて江藤側
の援軍に駆けつけている。
一方で島原藩の過激派尊攘の丸山作楽(まるやま
さくら)と会見したり、前原一誠(まえばらいっせい)
とも交流を図っている。
1875年(明治8年)には、『田舎新聞』を発行して、
民権運動を促進する功績を挙げている。
西南戦争直前には、同志とともに中津市庁を襲撃し
、その後、大分へ向かい西郷軍と合流している。

西南戦争で散った益田とは、対極的な人物が福沢
諭吉である。益田と福沢はまたいとこということも
あって、二人とも活躍する前から顔見知りであった。
1870年(明治3年)に福沢が郷里にいる母を迎えに
中津へ戻ってきた時、益田は福沢を暗殺する計画を
立てていた。
益田は福沢より13〜14歳も下で、福沢は益田を
子供の時から宗さん宗さんといって可愛がっていた
が、当の本人はすでに成人を過ぎて、頑固な思想
を持ち、憂国の志し強く、福沢暗殺を目論んでいた。
しかし、福沢が客人と終始いっしょにいるため、益田
は結局、実行に移すことができなかった。

福沢は、大坂にある中津藩蔵屋敷にて生まれた。
父・百助(ひゃくすけ)は帆足万里の門弟であった。
福沢21歳の時、長崎に遊学し知識を磨くと共にその
後は、緒方洪庵の適塾に入学して更なる啓発に
勤しんだ。
1860年(万延元年)には、幕府による遣米使節(けん
べいしせつ)が成ると福沢はこれに随行した。
後には欧州にまで足を運び、西洋諸国をくまなく見聞
してまわった。
ついで、1867年(慶応3年)に再び福沢は、渡米を果
たし、さらなる西洋学問の修得へと浸透していった。

中津藩が輩出した武人として、有名なのが島田虎之
助(しまだとらのすけ)である。幼少の頃より漢学を
学んでいたが、後に剣術にて立身することを志、
漢学を捨てた人物である。
剣術への打ち込みは激しく、尋常ではなかったと伝え
られている。
夜寝ている時でも、にわかに剣術の妙案を思いつく
と庭に踊り出て、技の開発にいそしんでいたという。
島田は、自己が日頃練り上げてきた自分の力量を
試したくなり、弱冠16歳にして、九州各地を武者修行
する決心をした。
九州各地に名を馳せる剣客を訪ね歩き、果敢に試合
を挑んだが、すべて敗北するという散々な結果と
なってしまった。

その後、中津に帰郷した島田は、再び剣術の修行に
打ち込み、再度18歳にして九州各地を巡り、かつて
自分が敗北した剣客に試合を挑んだ。
結果は全てに勝利するという快挙を成し、自らの力量
に悟りを見出した。
ついで京都や大坂へも出張って手ごたえある人物を
探し回ったが見つからず、さらに江戸へと出張り、
ようやく師と仰げる男谷信友(おだにのぶとも)に出
会い、その門人となった。

その後、浅草にて道場を開いた島田は、その門下生
に逸材を見出す。後の幕府救世主となる勝海舟で
ある。
海舟は明治以降に著した回想録である『氷川清話(
ひかわせいわ)』の中で、島田のことを記している。
「剣術の奥義を極めるにはまず、禅学を修得しなく
てはならないとか、他流の剣術は型ばかりで真正な
るものがまったく具わっていない」などと島田は豪語
していた。
また、海舟もそんな島田をして、「猛暴ではあるが
謙徳あり、剣においては天下無双」と評して、世間
並みの剣術家とはどこか違うと語っている。
高評を博す島田も、危険因子と見なされたのであろ
うか、39歳の謎の死を遂げている。
一説に幕吏による毒殺説が伝えられている。

中津藩領内では、落合村妙見宮(みょうけんぐう)の
神官・高橋清臣(たかはしきよおみ)が熱烈な尊攘派
で、尊攘派の巣窟となっている京都に住む中山忠能
(なかやまただやす)らと親交を深めていた。

中山忠光(なかやまただみつ)が天誅組を起こすと
高橋はこれに呼応し、長光太郎(ちょうみつたろう)・
長愛次郎(ちょうあいじろう)・青木猛彦(あおきたけ
ひこ)・原田種方(はらだたねかた)ら同志を集い、
1865年(慶応元年)に耶馬溪(やばけい)木ノ子岳
に挙兵し、日田(ひた)代官を襲撃しようとしたが、
事前に幕吏(ばくり)の知るところとなって、失敗に
終った。

高橋・原田らは逃亡の末、大坂で捕らえられ、藩へ
戻される途中、彼らは絶望のあまり投身自殺を遂
げた。
木ノ子岳での挙兵が失敗するとその生き残りの有志
たちは、宇佐神官を加えて、再挙を図った。
しかし、同志たちの中から捕縛されるものが出て、
宇佐八幡宮に隠していた武器を発見されると立場を
危うくして、多くの者が長州へと脱出した。
その後、助勢を得て、四日市代官を襲撃したが、
この挙兵も中途半端に終り、大きな成果を得られな
かった。