飫肥藩 (おびはん)
≪場所≫ 日南市
飫肥藩主・伊東祐相(いとうすけとも)は藩内の学問振興を
目指し、藩校・振徳堂(しんとくどう)が設けられた。
この藩校・振徳堂で人材養成に尽力したのが、安井滄洲
(やすいそうしゅう)・息軒(そつけん)父子である。
滄洲が藩校総裁を勤め、息軒がその助教となって父子と
もども学問振興に貢献した。
息軒は滄洲の次男として1799年(寛政11年)に生まれた。
20歳にして、大坂へ遊学し、篠崎小竹(しのざきしょうちく)
の門弟となった。後には昌平學(しょうへいこう)に入学した。
息軒は体が小さく、あばた面であったため、同輩から軽蔑
されることが多々あった。
しかし、彼は”今は音を忍ぶが岡のほととぎす いつか雲井
のよそに名のらん”と称して、勉学に熱中した。
1826年(文政9年)、息軒は江戸藩邸勤番となり、藩主の
侍読(じどく)に抜擢され、翌年には帰郷し、父と共に人材
育成に尽力した。
学問での権限は絶大であった彼らも、藩政については、
藩内の重臣たちと意見を違わせ、藩政改革への貢献は
成せなかった。
その後、再び江戸に出た息軒は、麹町(こうじまち)にて
三計塾(さんけいじゅく)を開き、多くの俊才を集めた。
塾生には、谷干城(たにたてき)・品川弥二郎(しながわ
やじろう)・陸奥宗光(むつむねみつ)・雲井龍雄(くもい
たつお)など天下の逸材が数多くいた。
息軒はさらに学識を磨き、後には昌平學教授に任ぜられて
いる。
息軒は常々、学問は経世実学を旨とし、漢・唐の学問に
精通し、それらの注釈や考証を盛んにした。
さらに国事にも深い関心をよせ、『海防私議(かいぼうしぎ)』
を著して、独自の国防論を展開し、徳川斉昭など知識人たち
からその逸材を認められている。
また、堕胎禁止(だたいきんし)や種痘(しゅとう)の励行など
藩政に多大な影響を与え、藩内改革にも功績を残した。
特に藩内で使用を厳禁されていた絹布(けんぷ)に目をつけ
、養蚕(ようさん)を興すことで藩財政を潤すことを思い立つ。
息軒は自ら上州へと赴き、桑の栽培方法など養蚕技能を
詳しく調査収拾し、これを藩に伝授した。
こうして、飫肥藩では、養蚕製糸所が創設され、殖産振興の
機運が高まった。