沖縄 (おきなわ)
※琉球 (りゅうきゅう)
≪場所≫ 沖縄県
琉球は、15世紀初めまで、琉球王国であり、後に
徳川幕府によって、薩摩藩に従属することとなる。
薩摩藩と琉球は砂糖流通や財政的な支援などで深い
関係にあった。
一方で中国の清国にも朝貢しており、1866年(慶応2
年)には、琉球国王・尚泰(しょうたい)が清国皇帝から
琉球中山王(ちゅうざんおう)に封ぜられている。
このため、琉球は日本と中国に両属する国であった。
幕末動乱が激しさをます中、薩摩藩主・島津斉彬は、
幕府が頑固に堅守する攘夷鎖国政策に反対して、
将来的には日本が開国するに至ると考え、その下
準備として琉球を仲介とする貿易を計画していた。
また、幕府老中・阿部正弘も柔軟な対外政策の方法
として、琉球の存在に目をつけていた。
しかし、正弘と斉彬の相次ぐ急死により、琉球に対する
事情は変わっていった。
維新後の版籍奉還から廃藩置県へと進む中、琉球が
従来取ってきた、両属というあいまいな関係は成り立た
なくなってきた。
国際法上も明確な枠組みが必要となり、1872年(明治
5年)、王政一新によって琉球の賀慶使(がけいし)が
上京すると、改めて琉球藩の設定と尚泰を藩主へ任命
する旨が伝えられた。
すでに版籍奉還が成されている中で、新しい藩を設定
するのはちぐはぐのようだが、琉球王国をいったん藩
という形式に置き、改めて版籍奉還させて、明治政府
の管轄下に置くという二段構えの政策なのである。
これは前に清国から封ぜられた王侯を解除し、暗に
琉球が日本国の領分であるということを主張して見せ
たのである。
こうした明治政府の琉球取り込み政策は、新たな展開
にて、確固としたものと成った。
たまたま那覇港を出た貢納船が台風にあい、台湾に
漂着したのだが、現地人に乗り組み員54人が捕らえら
れ、殺害されるという事件が起きた。
これに目ざとく反応した明治政府は、この際、琉球問題
も一挙に解決しようと清国政府に対し、厳重抗議を申し
入れた。清国側は台湾は化外の民であり、清国の政令
が及ばないと述べ、責任を回避してきた。
そこで、日本は征討軍を起こし、台湾出兵を実施した。
出兵の理由は、「わが人民を殺害した罪を問い、将来
の航海の安全を確保するため」ということであったが、
この日本の強気の姿勢により、琉球の主権が日本に
存在することを清国が認めざるを得ない結果となった。
この一連の事件で琉球側は、両属関係によって得られ
ていた特権が失われることを恐れたが、明治政府は抜
け目なく、この機会を使って明治12年に処分官を琉球
に派遣し、廃藩置県を実施。
尚氏による琉球統治権は終わりを告げ、新たに沖縄県
と定められ、初代県令として侍従の鍋島直彬(なべしま
なおよし)が任命された。