伊達 宗城 (だて むねなり)
1818-1892 享年75歳。宇和島藩主。

開明派大名として、藩経営を推進し、幕末期において、宇和島藩を先進藩
と成した。維新後は、明治新政府の重鎮となり、近代日本構築に貢献す。

伊達 宗徳 (だて むねえ)
宇和島藩主。

前藩主が構築した藩内組織を巧みに運営し、宇和島藩を雄藩と成した。

吉見 左膳 (よしみ さぜん)
宇和島藩家老。

宇和島藩を雄藩と成すために藩政改革を実施。
将軍継嗣問題を通じて幕政改革を願ったがかなわず、追放処分を受ける。

都築 壮蔵 (つづき そうぞう)
宇和島藩士。

雄藩連合を目指し、奔走。大政奉還の案件を支持して、土佐藩の後藤象二郎
らとともに大政奉還を進言した。

林 玖十郎 (はやし くじゅうろう)
宇和島藩士。

藩主・宗城に重用され、雄藩連合実現のために奔走する。
戊辰戦争では、東征軍の参謀を務め、統一国家実現に尽力した。

宇和島藩 うわじまはん
≪場所≫ 宇和島市


 宇和島藩の藩祖は、伊達秀宗である。
秀宗はあの”独眼竜政宗”で名を馳せた戦国時代の英雄
・伊達政宗の庶子である。大坂の陣で抜群の軍功を現し
、その功績により、仙台藩伊達家の支藩として、宇和島
藩10万石を拝領した。

 幕末に七代藩主・宗紀の二人の子が夭逝したため、
八代藩主の座をめぐって、藩内で議論が紛糾した。
候補には、将軍・家斉の子か、島津重豪の子を迎えよう
という動きがあったが、名族・伊達家の血筋を絶やすな
という声が高まり、幕臣・山口直勝の子で、宇和島藩の
中興の祖と謳われた名君、五代藩主・伊達村侯(だて
むらとき)の外曾孫に当たる宗城が候補に挙がった。
 宗城は若い頃から有能振りを発揮し、水戸藩主・徳川
斉昭が褒め称えたほどであった。斉昭が賞賛した宗城は
、後に幕末四賢侯の一人に数えられる名君となって
いる。

 宗城は、開明な思想を持ち、欧米列強の問題が起こる
と、積極的に欧米化政策を進め、藩の軍備力と財政力
の強化に務めた。
 すぐれた人材を全国から招き、藩内の改革に当たら
せた。まず、蘭学者の高野長英を宇和島藩に招き、蘭学
塾を藩内に開かせ、オランダ兵学や翻訳の研究に従事
させた。
 高野が江戸で死すと代わりに大坂で人気を博していた
緒方洪庵の適塾塾頭を務める村田蔵六(むらたぞうろく
※後の大村益次郎)を宇和島藩に招いている。
 この村田の指導の下で、西洋兵学や砲台築造などを
成し、仕舞いには軍艦の雛形を作り、宗城自身がこれに
飛び乗り、宇和島湾内を巡航して見せた。
 村田の抜群の指導力の下でメキメキと宇和島藩は西洋
近代化を図り、成果を挙げるとこの名声を聞いた幕府が
村田を宇和島藩より借りる形で引き抜いている。
 村田は幕府施設の蕃所調所の教授となり、欧米列強
との外交問題や幕府内の西洋化に従事した。その後、
さらに声望を高めた村田を故郷の長州藩が気付き、急き
ょ村田を帰藩させ、長州藩の近代整備に従事させている。
 このように時代を先駆する大人物を素早く見出して、
藩に招き、藩政改革に従事させるというすぐれた人選力
を現した宇和島藩は、急速に勢力を拡大させ、西南雄藩
の一つに躍り上がったのである。