桑名藩 (くわなはん)
≪場所≫ 桑名市
桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は、幕末の政局
混迷の中、京都警備の任に当たった人物である。
尾張藩主・徳川慶勝と会津藩主・松平容保は定敬の実兄
である。
兄弟そろって、佐幕派であったが、兄・慶勝は尾張藩祖の訓示
を守って、戊辰戦争の際には勤王派に回っている。
そのため、定敬はもう一人の兄・松平容保とともに徹底佐幕
の信念を貫き、戊辰戦争の台風の目となった。
1867年(慶応3年)12月9日、王政復古の大号令が朝廷より
発せられると、容保と定敬は京都警備の任を解かれ、政局
からの締め出しを受ける。
このまま国政の表舞台から引き下がれない容保・定敬は、
元将軍・徳川慶喜とともに大坂城へ引き揚げ、今後の身の
振り方を協議した。
容保・定敬は旧幕府の意地を天下に示すべきとして、国政
の主導権奪回を主張したが、慶喜は国内の兵乱がますこと
を恐れ、あまり乗り気ではない。
そんな議論が紛糾する中、旧幕府軍の暴走により、鳥羽・
伏見の戦いが勃発。旧幕府軍は三分の一に満たない官軍
に敗北して、大坂城へと逃げ帰ってきた。
こうなっては、もはや旧幕府は、朝敵の汚名を免れない。
大坂城を枕に総員討死を主張する旧幕府軍の指揮官たち
をなだめつつ、慶喜は容保・定敬らを率いて、海路軍艦にて
江戸へと脱出した。
旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、桑名藩主は江戸へ
逃走したとあって、桑名藩内では激しい議論が闘わされた。
江戸へ向かい藩主とともに再度、官軍と抗戦しようと主張
する者や無血開城・恭順謹慎を成し、兵乱沙汰にならない
ようにしようという穏便派、桑名の地で官軍と決戦しようと
いう現地決戦派の三派に意見が分かれた。
次第に議論は、洗練されたものとなり、城兵が少ないため
桑名藩内での篭城決戦は、中止となり、江戸へ藩兵を
派兵する徹底抗戦派と官軍へ協力する恭順派の二派が
最後まで対立した。
結局、家老・酒井孫八郎の決裁でくじ引きにて、藩論を決
めることとなり、結果は抗戦となった。
しかし、藩内の力量の無さから、次第に恭順へ傾く者が
増え、結果的に徹底抗戦を主張する強硬派の藩士たち
が脱藩し、江戸に向かうことで藩論は決した。
江戸に向かった藩士たちは、江戸での徹底抗戦を考えて
いたが、すでに江戸は無血開城となり、官軍の支配下と
なることから、旧幕府軍は北陸か東北へ移動しなくては
ならなくなった。
そこで、定敬は徹底抗戦派の桑名藩士を一まとめにし、
江戸から海路、越後の柏崎へ向かい、その地で会津藩
らと共同で官軍迎撃にあたることとした。
途中、宇都宮や日光にて官軍と戦い、陸路で越後へ入った
部隊もあった。
北陸の地に結集した旧幕府軍ではあったが、以前として
戦局不利の状況は変わらず、ついには桑名藩家老・吉村
権左衛門が恭順すべきことを主張して、再び部隊は分裂
の危機に直面する。
だが、吉村は強硬派藩士によって、斬殺され、主戦派が
主導権を握ることと成った。
官軍の北陸鎮撫の部隊は、次第に強力化し、定敬は戦況不利
として、柏崎の地を放棄し、越後から兄・容保がいる会津の地
へと移った。
会津の地が苦境すると、仙台へと移動し、そこから榎本武揚
が率いる軍艦に乗り込み、箱館へと向かい、そこにて共和制
を樹立し、独立国建設に取り組んだ。
しかし、一年も立たずして、新政府軍の鎮圧部隊が北海道に
投入され、激戦の末、桑名藩家老・酒井孫八郎の説得により
、定敬はようやく降伏した。
新政府は、徹底抗戦の首謀者を死罪にする構えを見せたため
、桑名藩では藩主に代わって、森陳明(もりつらあき)が藩の
全責任を負って、斬殺された。
森は定敬が京都所司代を勤めていた時の公用人で、彰義隊
に参加して、箱館戦争まで官軍と死闘を演じてきた人物で
あった。
松平 定敬 (まつだいら さだあき)
桑名藩主。
幕末動乱に当たって、京都所司代を務め、兄と共に京都の守護を成す。
8・18の政変、禁門の変で大いに活躍するも戊辰戦争にて失墜す。
酒井 孫八郎 (さかい まごはちろう)
桑名藩家老。
戊辰戦争にて混乱する藩内をよく取りまとめた。
維新後は、多功により大参事に昇格す。
吉村 権左衛門 (よしむら ごんざえもん)
桑名藩家老。
時勢を見極めきれず、早すぎる尊王恭順の姿勢を取ったため、佐幕派
藩士たちに斬られた。
山脇 十左衛門 (やまわき じゅうざえもん)
桑名藩重臣。
藩主・定敬をよく補佐し、公武合体策の実現のために奔走す。
戊辰戦争では徹底抗戦を主張し、最後まで官軍と戦った。
立見 尚文 (たつみ なおふみ)
桑名藩士。
公武合体策を志し、薩摩藩の西郷隆盛らと親交を持つ。
倒幕運動が展開されるに至ると佐幕派の姿勢を貫き、戊辰戦争にて転戦す。