白河藩 (しらかわはん)
≪場所≫ 白河市


白河藩は藩政改革、幕政改革で名を馳せた松平
定信を輩出している。
天命飢饉で貧民救済に成功し、”楽翁(らくおう)”
と称された。

幕末動乱期には、幕府の領土となり、二本松藩
の管轄下に置かれていたが、戊辰戦争が勃発すると
奥州攻防の戦略上の要衝となり、東北戦争の緒戦
の場となった。

新政府軍の攻撃に対し、一時は会津藩が猛反撃し、
白河藩の城を制圧して、防衛線を固めた。
しかし、新政府軍の西洋兵器の前には防ぎきれず、
敗退した。
この激戦で、仙台藩・会津藩・棚倉藩からなる東北
列藩軍は、戦死者700余名を出したが、新政府軍の
戦死者はわずか10名ほどだったという。

この圧倒的な被害の差が、その後の局地戦の展開
を決めた。散発的な反撃を行った東北列藩軍では
あったが、所詮は兵器の差があり、まともな合戦が
できない。
ズルズルと戦況は悪化し、ついには白河奪還の作戦
は再建ならず。
この敗戦で白河藩の城に立てこもっていた会津藩
家老・西郷頼母(さいごうたのも)は、決死の覚悟で
官軍へ突っ込む作戦を立てたが、部下の進言で
再起を目指して会津へ敗走した。