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山内 容堂  1827-1872
(やまのうち ようどう)
享年46歳。


土佐藩主。
名は豊信(とよしげ)。

□20歳で藩主となるも、吉田東洋ら雄才の
  志士たちを起用し、藩政改革を推進して
  いった。

□1857年、将軍継嗣問題が持ち上がると、
  松平慶永、島津斉彬らとともに一橋慶喜
  の擁立を推し進めた。

□公武合体の雄藩連合を構想し、推進
  した。
  この頃、長州藩では尊王攘夷運動が
  盛んに行われ、長州藩の藩政は尊王
  攘夷派一色となっていたが、土佐藩で
  は朝廷と幕府、諸藩が協力して難事な
  国政に当たるという公武合体論が藩是
  となっていた。

  土佐藩主・容堂も公武合体論を強く推進
  する考えを持っていた。
  そのため、容堂は佐幕派の主張する
  公武合体派を応援し、倒幕や攘夷を唱
  える土佐勤王党を圧迫した。
  この頃の土佐藩内部では、吉田東洋を
  中心とした佐幕派と武市半平太を中心と
  する土佐勤王党の二分に分かれて藩
  是を争っていた。

□藩是争いが激しさを増す中、佐幕派の中
  心人物であった吉田東洋が土佐勤王党
  一派の手にかかり落命した。
  これに怒った容堂は、1863年、武市半平
  太ら土佐勤王党の一派を捕らえる命令
  を下し、武市らには切腹という厳しい処
  置で望んだ。

□1867年、後藤象二郎の建議をいれて、大
  政奉還を徳川慶喜に建白。
  一躍、明治維新の立役者となった。
  1867年12月9日、”王政復古の大号令”
  が出され、その後、小御所会議が開か
  れ、それに容堂は出席した。

  酒好きの容堂には、”鯨海酔侯(げいか
  いすいこう)”(クジラが海につかっている
  ように酒びたりの人)というあだ名がつ
  いていた。
  小御所会議の日も朝から酒を飲んで、
  酔っ払って会議に出席したという。

□維新後、明治政府の議定を務めた。




↑山内容堂
 ”時局は腹の立つことばかり”と嘆き、当初、号を忍耐する意味を込めて”忍堂(にんどう)”にしようと考えていたが、時局に寛容になろうと考えを改め、”容堂”にしたという。