田中 光顕
たなか みつあき
1843-1939
享年97歳。
名称:浜田辰弥(はまだたつや)、顕助(けんすけ)
□土佐藩士・浜田金治の子として生まれる。
光顕の家は、土佐藩では最下級であり、貧窮に
苦しむ少年時代を過ごした。
□青年時代には、藩の文武館にて学問を学んだ。
この頃に光顕は叔父で土佐勤王党に属する那
須信吾(なすしんご)と会っているが、その那須
が土佐藩の執政・吉田東洋を暗殺する事件が
起こる。
この事件に感化された光顕は以後、土佐勤王党
に属して各運動に活躍していくこととなる。
□勤王の運動を開始した光顕ではあったが、藩の
執政を討った事件はことさら大きく、藩を挙げて
関係者の弾圧が行われた。光顕もその対象と
なり、土佐を脱藩するに及ぶ。
長州藩に身を寄せた光顕であったが、尊攘派の
幾重の敗退によって、長州藩にも身を置くことが
できなくなる。
仕方なく、知人を頼って大坂へと赴く。そこで、
将軍・徳川家茂が上洛するとの情報をつかむと
光顕ら浪士たちは、この際、大坂の町を焼き払
い、挙兵しようという計画を立てる。
だが、新選組に探知され、大坂の地を追われる
と今度は、中岡慎太郎が組織する陸援隊に入り
活動する。
その後は、高野山義軍を指揮し、明治維新を向
かえ、新政府の官僚として活躍の場を見出す。
□西南戦争では、征討軍会計部長を務め、その後
も立身出世を果たし、ついには宮内大臣にまで
昇りつめる。
その後は、70歳を前にしてスキャンダル騒動
に巻き込まれ、官界を退いた。