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谷 干城
たに たてき
1837-1911
享年75歳。
名称:申太郎、守部、隅山
身分:土佐藩士
□1856年(安政3年)、江戸に出た干城は
、安積艮斎(あさかごんさい)や安井息
軒(やすいそつけん)の門下生となり、勉
学に励んだ。
この時、干城は安井の執事となって従事
している。
□1862年(文久元年)に、大坂の地にて、
同郷の武市半平太に出会い、親交を深
めて、尊攘思想の影響を受けた。
□翌年には藩校の助教授となり、人材育成
に従事する一方で、時流の尊王攘夷論
に傾倒し、国事のために九州・近畿地方
に赴き諸事に務めている。
□1866年(慶応2年)末に、干城は藩命を受
けて、上海(シャンハイ)に渡海し、現状
視察を行った。
この時、干城は攘夷思想が間違ってい
ることを痛感した。
すでに上海では、租借地という形式で半
植民地化が進んでおり、中国人は欧米
列強の言いなりとなっていた。
この現状を知った干城は強い衝撃を受
け、以後は開明的な思想に転換し、富
国強兵策に傾倒していった。
□帰国した干城は、土佐藩を中心に活動し
ていたが、土佐藩を脱して他の地で活躍
する坂本龍馬や中岡慎太郎の動向に大
いに注目していた。
後藤象二郎も土佐藩を飛び出し、長崎
にて、諸外国人と交流したり、商人と談
合を持ったりと忙しなく動いていた。
干城は彼ら同郷人と交流を深めながら、
土佐藩代表として諸事に務めていった。
□1867年(慶応3年)5月に干城は板垣退助
とともに薩摩の西郷隆盛と会談し、薩摩
藩と土佐藩がともに協力し合うという密
約を締結した。
薩土同盟が成立し、土佐藩は薩長ととも
に国政の表舞台に踊り出たのである。
この同盟は討幕運動をさらに加速させ、
戊辰戦争において、土佐藩軍が活躍す
るきっかけともなった。
□戊辰戦争が起こると干城は、東征軍の大
軍監となり、会津戦争などで軍功を挙
げた。
□1870年(明治3年)には少参事となり、土
佐藩の改革に尽力していたが、翌年の
1871年(明治4年)には、新政府の陸軍
組織へと入り、各地の駐留軍司令官を
務めた。
1876年(明治9年)には、熊本鎮台司令
長官となり、熊本の地に赴任した。
赴任から一年後の1877年(明治10年)に
西南戦争が勃発し、西郷隆盛が率いる
反乱軍が熊本城に迫った。
干城は4000名の鎮台兵とともに熊本城
に立てこもり、徹底抗戦の構えを見
せた。
西郷軍は熊本城を一気に抜こうと考え、
総攻撃を初手から仕掛けてきたが、鎮
台軍は難攻不落の熊本城をよく活用し
て、巧みに防戦した。
このため、戦況はこう着状態となり、西
郷軍が熊本城を包囲する形を取った。
西郷軍1万数千の軍勢は、50日間近くも
包囲していたが、黒田清隆率いる官軍
が援軍に駆けつけ、西郷軍の包囲を突
破して、熊本城に入城すると戦況は一挙
に動いた。
西郷軍は軍勢を建て直し、撤退を開始し
たため
これを官軍が追撃する形で戦争は展開
し、8ヶ月近くの攻防戦の末、西郷隆盛
はじめ多くの士族が討たれ、鎮圧さ
れた。
□戦後、干城はあの軍略の天才と賞賛され
ていた西郷隆盛の軍勢の攻撃を凌いだ
ことを絶賛され一躍、名を馳せた。
そして、この戦功により陸軍士官学校校
長や中部監軍部長などを歴任し、軍部
の英雄としてもてはやされた。
□その後、思うところがあって、1881年(明
治14年)に軍籍を離れた干城は、
1885年(明治18年)に農商務大臣と
なる。
1887年(明治20年)には辞任し、その後
、子爵となり、貴族院議員に上り、政界
の舞台で活躍した。
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西南戦争で鉄壁の守りを見せ、西郷隆盛の進撃を打ち砕いた。
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