二本松藩 (にほんまつはん)
≪場所≫ 二本松市
戊辰戦争にて、奥羽越列藩同盟が結成されると、二本松
藩は徹底抗戦を主張した。
いざ官軍が東北に進撃してくると、弱腰の藩が続出する
中で、二本松藩は主力の藩兵を白河口に集結させ、積極
的に官軍を迎撃する態勢を見せた。
しかし、この動きを察知した官軍は臨機応変に白河口を
回避し、浜通りを通って霞ヶ城を攻撃した。
二本松藩の主力部隊を回避した官軍の進撃はまさに
破竹の勢いであった。官軍の思わぬ行軍で調子が狂った
二本松藩軍に対し、さらなる訃報が届く。
味方と信じていた三春藩は勤王派へ鞍替えし、二本松藩
軍に攻撃してきたのである。
三春藩にだまされた形となった二本松藩は、完全に戦線
統制が取れなくなり、苦境に立たされた。
しかし、二本松藩老の丹羽一学(にわいちがく)は、「同盟
に背き、周囲の信頼を失って敵に降るよりも、むしろ死し
て、信頼を守る方がまし」と述べ、あらためて藩内に徹底
抗戦を厳命した。
意気盛んではあっても、二本松藩の留守部隊は老人と
17歳までの少年ばかりである。兵器の差も格段であり、
総員玉砕は免れない状況であった。
本丸へと突入した政府軍は、丹羽一学ら七名の自刃した
死骸しか見ることができなかった。
野戦にて決戦を挑む二本松藩軍は、一人一刺を実行
した。兵器による火力では断然負けるのだから、白兵戦
にて、一撃必殺にて敵を討ち果たすことを目指したのだ。
14歳の少年藩士・成田才次郎は長州藩士で官軍部隊
隊長を刺殺する成果を挙げている。
官軍も相手が少年であるため、にわかにためらうことが
多かったという。官軍指揮官・野津道貫(のづみちつら
※のちに明治政府陸軍元帥)の述懐でも、幾多の激戦
で唯一、必死に逃げたのは二本松藩軍との戦いの時
だけだったと記している。
この激戦で二本松藩にどれだけの犠牲者が出たかは
定かではないが、少数ではなかったことだけは確かで
ある。