弘前藩 (ひろさきはん)
≪場所≫ 弘前市
戊辰戦争がはじまると、東北諸藩は武士の意地を見せる
べく、奥羽越列藩同盟を結成した。
弘前藩もこれに同調し、同盟に加入したもののその行動は
優柔不断なものであった。
吹っ切れない姿勢のまま、北陸・東北が次々と戦火に包ま
れていく中、官軍から総督令を受け、勤王か佐幕かで揺れ
に揺れ動いた。
そんな中、京都駐在の弘前藩士が帰藩し、朝廷の令書と
近衛家の教書によって、藩主の意志は決まる。
勤王派への転換を決定すると同盟を脱退し、勤王の旗印
を掲げて、列藩諸藩への攻撃を開始した。
盛岡藩の手中に落ちた大館城を攻撃し、東北での形勢は
官軍有利へと傾いていった。
野辺地(のへじ)は、列藩同盟の盛岡藩、八戸藩らの藩兵
が200名で守備していたため、官軍側は海から中牟田
倉之助(なかむたくらのすけ※佐賀藩士)が指揮する軍艦
・陽春丸によって、砲撃が加えられた。
この攻撃を合図として、開戦となり、小湊(こみなと)に駐屯
していた津軽藩兵180名が列藩同盟の諸藩軍に攻撃を
仕掛けた。
村々を焼き払い進軍したが、そのために津軽藩軍の動き
を逐一知った盛岡藩軍がたくみに迎撃した。
この迎撃戦で津軽藩軍は撤退を余儀なくされ、局地戦な
がら、多数の死傷者を出す激戦となった。
その後、官軍の圧倒的優勢は変わらず、奥羽列藩は、
次々と降伏し、東北の兵乱は終息した。
だが、北海道へと逃れた旧幕府軍は、榎本武揚を頭領と
して、共和制を布き、独立を成すと再び戦火の機運が
高まった。
青森の地は、明治政府軍の前衛基地となり、箱館戦争
の下準備で大いにごった返した。
諸藩の軍兵が青森に集結し、弘前藩は応接に奔走した。
急きょ犬狩りをして、大量の毛皮を確保し、北海道遠征の
準備品を整える一方、集結した兵団の宿舎や食糧の調達
・配布など雑用に多忙を極めた。
箱館への出陣までの半年間、弘前藩は諸藩応接に奮闘
し、「時には参謀の如く、時には問屋の如し」と評される
ほどであった。
50万両という巨費を費やして、勤王への忠誠心を示した
弘前藩は、それに見合う褒賞を賜ったが、その後の人事
選抜には、大いに不満を残した。
勤王への着座が遅かった弘前藩には、明治政府内での
人事ポストがほとんどなかったからだ。
弘前出身の陸羯南(くがかつなん)は、「維新以後、薩長
二藩の皇室となる」と批判し、薩長人のほかは枢要の地位
を得られず、土佐人のほかは幕僚に入れず、肥後人のほ
かは部下にも成れずと評し、藩閥人事を激しく非難した。