松前藩 (まつまえはん)
≪場所≫ 松前郡松前町
藩祖は蠣崎氏で、松前と姓を改め、幕府に臣従した。
北海道の道南の一部を支配するに留まり、農業生産
力がないため、蝦夷地の海産物などによる交易にて
経済を立てていた。
1669年(寛文9年)に起きたシャクシャインによるアイヌ
蜂起などでは、自力での鎮圧ができず、東北諸藩の
援兵によって、ようやく鎮圧するなど、軍事力は皆無
に等しかった。
弱小藩であったため、幕末期に北海道北部に進出する
ようになったロシアの脅威に対抗することは不可能と
判断され、幕府による移封がなされた。
松前藩は奥州梁川へと移り、北海道全域は幕府の直轄
領となった。
その後、再び幕府は松前藩を蝦夷地に戻し、箱館の開
港とともに道内の大部分を再度、幕府の直轄領とし、
箱館奉行などを置いて監視下とした。
1868年(慶応4年)3月、京都に新政府が成ると松前藩
は、使者を上洛させ、朝廷への恭順の意を表したが、
東北諸藩が奥州列藩同盟を結成すると松前藩家老・
松前勘解由ら藩幹部らが独断で、この同盟に参加。
その反動で藩内はにわかに騒然となった。
この幹部らの専横に憤慨した勤王派の有志ら四十数名
が正義隊を結成し、クーデターを起こし、藩の実権を
握った。
こうして、松前藩は勤王派から旧幕府派となり、再び
勤王派に変わるという目まぐるしい政権交代が成された。
東北諸藩が官軍と激戦する中、旧幕府軍は次第に追い
詰められるようになると、北海道へと逃れて来た。
旧幕府軍を率いる榎本武揚らは、噴火湾の鷲ノ木に上陸
を果たすと、瞬く間に箱館奉行所が置かれていた五稜郭
と弁天砲台を占拠し、共和制を布く独立を宣言した。
この旧幕府軍の横行に対して、松前藩は勤王派ながら、
自力で討伐することができずにいた。
松前藩は孤立無援のまま、旧幕府軍の攻撃を受けた。
松前藩攻撃の総帥には、新選組でその武勇を天下に
示した土方歳三である。
藩兵は、豪腕勇将が率いる旧幕府軍に対して無力で
あった。そこで藩軍は城を敵に奪われることを恐れ、
城下に火を放ち敗走した。この火災は、市中にある4000
戸のうち、3000戸を焼き尽くした。
勢いに乗る旧幕府軍は、さらに北進し、江差(えさし)、
館城を攻略し、敗退した松前藩兵は降伏し、藩主は逃走
した。
翌年になって、ようやく官軍が道内へと進攻し、五稜郭を
陥落させたことで、道内の兵乱は終息した。
その後、道内に返り咲いた松前藩は、旧幕府軍に協力
した藩士や町人など多数を処刑し、版籍奉還が成るまで
道内の統制に勤めた。