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鍋島 閑叟
(なべしま かんそう)


名称:直正(なおまさ)

□1830年(天保元年)、鍋島閑叟は佐賀
  藩主の座に就く。
  当時のご時世よろしく、佐賀藩も諸藩
  同様に財政難であった。
  閑叟が江戸から帰国しようとした当日に
  なって、借金取りが佐賀藩邸に押し寄
  せてきて、出発を延期しなくてはならなく
  なるなど、佐賀藩の財政も窮乏を極めて
  いた。

□江戸で赤恥をかいたことに懲りたのか、
  閑叟は、自らが精力的に政務を取り仕
  切り、藩政改革を推進した。
  まずは財政再建とばかりに矢継ぎ早に
  税収アップの秘策を施行した。

  綿花栽培、砂糖製造、石炭採掘などの
  近代的な殖産興業政策を展開し、藩財
  政の大幅な黒字に成功する。
  ついで、優秀な人材の登用、藩内の教
  育強化と振興、軍事の洋式化を図った。

  これら藩政改革を通常の諸藩では、優
  秀な藩士たちの手によって、断行されて
  いった
  が、佐賀藩では、これとは異なり、藩主
  自らが陣頭指揮を取り、改革を推進して
  いった。
  それだけ閑叟には改革の才覚が抜きん
  出ていたことを物語る。

□日本がペリーの来航で外国ブームが訪
  れるずっと前から佐賀藩では、欧米列強
  の脅威をよくよく知っていた。
  その要因は、佐賀藩の特殊事情にあ
  った。
  佐賀藩は、福岡藩とともに一年交代で長
  崎警備を担当してきたのだ。
  そのため、海外の動向や欧米列強の強
  引な植民地化政策をマザマザと見る想
  いで報告を受けていた。
  そのため、海防の必要性を日本国内で
  いち早く認識し、軍備の近代化が急務で
  あることを悟っていた。

  閑叟は長崎を通じて、海外情報を大量
  に入手しており、豊富な海外知識をかわ
  れて、橋本左内の幕政改革案のなかで
  、外国事務宰相の要職を耐え得る逸材
  として、名を挙げられたほどだった。
  当時の日本では屈指の国際通として、”
  蘭癖大名(らんぺきだいみょう)”などと
  あだ名されていたほど。
  自身も進んだ西洋技術に高い興味を持
  っており、オランダ船に自ら乗り込み、操
  縦法を詳しく聞いていたというご熱心振
  りであった。

□閑叟は進んだ西洋技術を藩内に取り込
  み、軍備の近代化を図った。
  反射炉を二基造り、大砲を量産すること
  に国内で初めて成功。

  長崎港内外の砲台を整備し、日本の海
  防力強化に大きな貢献をしている。
  ペリーが日本に来航すると、海防力の無
  力を悟った幕府が慌てて、強力な大砲
  の製造技術を佐賀藩に教え請うという一
  場面もあった。
  閑叟は、幕府に大砲技術者を提供し、幕
  府の海防力強化に貢献している。
  佐賀藩の大砲製造技術は、国内随一で
  あったことを物語る話である。

□閑叟の藩政改革は大成功となった。
  藩主自らの采配でここまで藩政を改善で
  きたのは佐賀藩くらいであった。
  それだけに閑叟の名君振りは全国津々
  浦々にまで知れ渡っていた。

  ここまで名君振りを発揮したのであれば
  、さぞかし、中央政権への発言力が強か
  っただろうに、閑叟自身は、まったくその
  野心を持たなかった。
  純粋に藩政の強化を目指すだけに留ま
  った閑叟は、幕政や朝廷への政治工作
  などにまったく興味を示さなかった。

  藩士たちには、高度な技術を学ばせる
  一方で、その技術が他藩に流出すること
  を防ぐため、他藩との交流を藩士たちに
  一切禁じるという処置を取っている。

  言わば、”二重鎖国”の方針を藩内に課
  したのである。
  閑叟は、むやみに国政の抗争に触れれ
  ば、甚大な被害をこうむると考えて、時
  期が熟すまで、一切の行動を慎むことを
  佐賀藩全体に課したのであった。

□1862年(文久2年)、尊王攘夷派と公武合
  体派の確執が深刻化するなかで、日本
  最大の近代軍備力を持つ佐賀藩の動向
  に日本中が注目するようになった。

  幕府からも、朝廷からも、西南雄藩から
  も、佐賀藩の協力要請が相次いだ。

  閑叟も時期は熟したと悟り、隠居の身軽
  さも手伝って、これら諸所の要請に応じ
  て、上洛を果たし、朝廷と幕府の調整役
  に踊り出た。

  海外事情に精通する閑叟である。
  無謀な攘夷論を非難し、公武合体を支
  持して、海防の危機を乗り切ることを第
  一として、軍事優先の立場を取った。

  富国強兵策を展開すべきと主張した閑
  叟は、国力充実と近代軍備の充実を最
  優先で執り行うことを諸藩に唱えた。

□この閑叟の国政関与に発奮した佐賀藩
  士たちの中から、血気にはやる藩士が
  多数出た。
  その中の一人に江藤新平がいる。
  江藤は、ようやく佐賀藩の時代到来とば
  かりに佐賀藩を脱藩して、京都へと向か
  った。
  上洛を果たした江藤は、同じく上洛して
  いた長州藩の桂小五郎とともに活動した
  が、まずはバックアップが大事として、佐
  賀藩の藩論を変えるべく、いったん佐賀
  へと戻った。

  しかし、江藤を待っていたのは、脱藩と
  二重鎖国の禁令を破ったことによる罪状
  で江藤は、永蟄居(えいちっきょ)を命ぜ
  られてしまう。

  たとえ、諸藩と連携して国難打開を模索
  する運動をしたとしても、軽率な行動で
  藩内を混乱させる要因を作ることは断じ
  て許されぬという厳しい姿勢で閑叟は臨
  んだ。
  新平のようなすぐれた逸材を失わせない
  ためには、他藩と行動を共にすることを
  許さない断固とした方針を閑叟は貫いた
  のだ。

□閑叟自身は、他藩の藩主との折衝が上
  手く行かず、早々に佐賀へと引き上げて
  しまった。
  他藩との協調が取れず、抗争に至る前
  に引き上げるなど見切りつけの英断力
  は維新屈指のものを誇るといえるだ
  ろう。

□その後も鳴りを潜める佐賀藩の去就には
  、注目を集めたが、目立った動きもない
  まま維新を迎えることと成る。
  閑叟自身も胃腸カタルの病状が悪化し
  て、積極的な活動が取れなくなったとい
  う健康上の理由もあった。

□1865年(慶応3年)12月に”王政復古の大
  号令”が発せられると、さすがに佐賀藩
  も、慌てて国政参加の動きを見せた。

  京都でわずかながら政治活動を取って、
  他藩に名前を知られていた江藤新平を
  登用して、京都へ送り、佐賀藩の国政参
  加の入り込める余地を作らせた。

□期待された佐賀藩の近代軍事力を鳥羽・
  伏見の戦いで用いることができなかった
  ものの、上野の彰義隊攻撃の際には、
  佐賀藩所有の最新鋭・アームストロング
  砲が大いに活用され、彰義隊をたった一
  日で壊滅させるなど、旧幕府軍との掃討
  戦に大いに貢献した。

  戊辰戦争での佐賀藩の近代兵器は大い
  に活躍し、新政府軍の勝利をもたらす勝
  因を作り出した。

□こうして、どうにか幕末・維新の時代に活
  躍の場を見出した佐賀藩は、薩摩藩、長
  州藩、土佐藩に次ぐ、第四番目の地位
  を得ることができたのである。

  しかし、閑叟の評価は名君振りとは裏腹
  に”日和見主義(ひよりみしゅぎ)”だとか
  、”二股膏薬(ふたまたこうやく)”などと、
  悪評が多くなってしまった。

  彼の行った藩政改革は抜群の効果を発
  揮して、西南雄藩の一角を担ったことは
  確かだったが、独裁政治と二重鎖国政
  策が、足を引っ張って、佐賀藩士たちの
  活躍の場を少なくしてしまったという低い
  評価が多い。

  しかし、彼の独裁政治は、藩内の派閥抗
  争を防ぎ、二重鎖国政策によって、藩士
  たちの無謀な挙行を未然に防ぐ効力を
  持ったことは確かである。

  その証拠に、無駄足を踏まずに幕末動
  乱を乗り切った佐賀藩は、明治維新とい
  う新しい時代の幕開けに対して、優秀な
  人材をほとんど損なわずに投入できた
  のである。

  その意味で、無駄な抗争を避けるという
  方針を頑固一徹に貫いた閑叟の功績は
  高い評価を得るに値するものであった。
  明治新政府に必要な有能無比な人材を
  数多く送り込めたことは、日本国の発展
  を行う上で大いに役立ったのである。



 藩政改革を推し進め、佐賀藩を西国雄藩にまで押し上げた。佐賀藩の近代兵器は、戊辰戦争の際に朝廷が頼みとしたほどだった。