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江藤 新平 1834-1874
(えとう しんぺい)
享年41歳。
佐賀藩士。
号は南白。
□幼少の頃は、家が貧しかったため、
苦学しながら、大志を抱いていた。
学校が遠かったため、毎日、10kmも
往復して熱心に勉学に励んだという。
□若くして、大志を抱いた江藤は、下級
武士でしかない自分が志を遂げるに
は、藩内にいつまでもいてはダメだと
判断。脱藩して京都へと向かい、当時
、流行っていた尊攘運動に参加する
ようになった。
□京都で、尊攘運動を展開し、全国の有志
者たちと面識を広げ、その鋭い感覚で
時勢の成り行きを敏感に感じ取り、
故郷の佐賀藩が時代に乗り遅れること
を危惧した。
□江藤は、京都の情勢を見極めた上で、
郷里の佐賀藩へと立ち戻り、尊攘運動
への参加を上奏した。
しかし、当時、佐賀藩では、他藩の者と
交流を深めてはならないと定めており、
脱藩をして京都へと赴き、政治運動を
してきた江藤の言うことをまともに聞く
者はいなかった。
□結局、江藤は投獄され、謹慎処分と
なってしまう。
佐賀藩では、最新の西洋兵器を導入
したり、西洋学を盛んに学ぶといった
ことを推し進めてはいたものの、政治
運動に直接かかわることだけは、厳しく
禁じていた。
そのため、江藤の先進的な政治運動へ
の勧めは、佐賀藩の藩是ではなかった
ため、江藤への厳しい処分として、現れ
る形となった。
□その後、時代は激しく変動し、第二次
長州征伐が失敗に終わり、討幕運動が
盛んになりだすと、ようやく、佐賀藩で
も時代に乗り遅れることを危惧するよ
うになった。
□京都に新しく起こった政府へ佐賀藩も参
加するために佐賀藩は、それまで迫害
してきた江藤新平を起用した。
江藤がかつて京都にて、尊攘運動を行
い、多くの有志者たちと面識を持ってい
たことが理由だった。
江藤は、すぐさま京都へと向かい、佐賀
藩代表として、新政府への参加を申し出
て、佐賀藩が時勢から乗り遅れることを
回避することに成功している。
□新政府は、戊辰戦争で旧幕府軍と各地で
熾烈な戦いを行う一方で、佐賀藩が所
有していたアームストロング砲などの
最新西洋兵器の活用を計画した。
佐賀藩の強力な兵器をもって、旧幕府
軍を倒すという有効な策で、新政府は
有利に戦争を展開することができた。
□戊辰戦争が終わって、江藤は、明治政
府の司法卿、文部大輔、左院副議長
を歴任し、一時はあの大久保利通の
座を揺るがすほどの敏腕政治かぶりを
発揮した。
□司法制度の整備や警察制度の統一を
行い、近代日本の礎を築く上で大きな
貢献を成した。
□没落した武士たちの処遇に苦慮した江藤
は、西郷隆盛らと共に征韓論を主張し
て、問題解決を目指したが、岩倉具視、
大久保利通らに反対され、その案件が
否決されると西郷たちと共に下野した。
□その後、江藤は民撰議院設立建白運動
に参加し、公平で適正な政治が行える
ようにすることを目指した。
□民撰運動に奔走していた江藤だったが、
郷里の佐賀で新政府への対応に不満を
持つ旧武士たちが反乱を起こしそうな
勢いを見せたため、急きょ、東京から
佐賀へと向かった。
佐賀に着いた江藤は、新政府へ反乱を
起こそうとしている武士たちを説得しよう
と考えていたが、実際に彼らに会って
みると江藤が考えていた方向とは、違
ったものとなってしまった。
反乱を計画していた武士たちは、江藤を
反乱の総大将に据えて、新政府へ立ち
向かうという勢いが起こり、江藤が拒ん
でも、どうすることもできなかった。
結局、江藤は旧武士たちと共に新政府
へ対抗してしまった。新政府は、軍隊を
派遣して、これを鎮圧。
江藤は、九州や四国へと逃亡して、追
っ手から逃れ続けたが、ついに捕まり、
志半ばにして、無念にも刑死した。
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佐賀藩を脱藩してまで、京都での先進政治に触れた先見の明を持つ。
戊辰戦争以降、佐賀藩を新政府の支柱の一つにまで高めた。
維新後に司法制度を整えるなど積極的な政策を推し進めたが、在野後に政運が尽きてしまった。
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