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大隈 重信
おおくま しげのぶ
1838-1922
享年85歳。


□佐賀藩士。
  外務大臣と総理大臣を務めた明治政府
  を代表する政治家。
   外務大臣を務めながら”一度も外遊して
  いない外政家”であった。

□佐賀藩校・弘道館に学び、藩政改革に
  加わり活躍した。
  尊攘過激派として脱藩後、上京し将軍・
  徳川慶喜に大政奉還を説こうとするが
  失敗する。

□王政復古の大号令が出されると、佐賀藩
  主・鍋島直大に倒幕出陣を勧めるが聞
  き入れられなかった。

□ 幕末の志士であった重信だが、幕末時
  代はさほど目立った活躍がなかった。
  同じ佐賀藩出身の副島種臣と共に倒幕
  を謀るが失敗する。
  維新の武功を薩長の志士たちに独占さ
  れると重信は、学識に通じて、これに対
  抗した。
  パークス公使と長崎裁判所総督・沢宣
  嘉(さわのぶよし)との間でいさかいがあ
  り、重信はその談判に入り、見事、仲裁
  に成功した。
  この外交手腕が岩倉具視の目にとま
  った。

□明治元年12月、大隈は外務事務官とし
  ては最高位の外務次官に任官され、一
  躍、明治政府の上層部に喰い込んだ。
  重信は、東京築地本願寺ぎわに大所帯
  を構えた。
  近くに住む伊藤博文や井上馨らの家よ
  りも大きく、大隈の第一次権勢時代が到
  来した。
  官僚として当初は順風満帆に見えた大
  隈重信であったが、大隈重信の反骨精
  神が強すぎたのか、その多くは挫折に
  終った。

□辛苦をなめた政治生活に見切りをつけ、
  重信は藩閥政界から身を引き、立憲改
  進党を組織。
  同時に東京専門学校(後の早稲田大学
  )を創立し、”学の独立”を高らかに
  謳った。

□その後は、見事に政界復帰を果たし、大
  隈の第二次権勢時代が到来。総理大臣
  まで登りつめたのである。




 イギリス流漸進派の政治家。立憲改進党の中心人物となり、犬養毅、尾崎行雄らと共に政治改革を推進した。

 知識層・産業資本家(三菱など)など都市中心に支持基盤を得て、二院制・君民同治・制限選挙を主張した。