高崎藩 (たかさきはん)
≪場所≫ 高崎市

水戸藩の過激派尊攘の有志たちは、天狗党を結成して
水戸藩内で反乱を起こしたが、藩政の主導権は握れず、
京都にいる一橋慶喜に直々に訴えようと、上洛の途に
ついた。
上野国へと進んだ天狗党に対し、幕府は追討軍を組織
し、追討総督に田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)を任
命した。また、幕命により天狗党が進行する沿道に接す
る諸藩に対し、迎撃・討伐せよとの伝達があった。

これに応えた高崎藩は藩兵を出し、陣営を張ったが、
この動きを察知した天狗党は、これを避けるべく藤岡
方面から内山峠、さらに佐久へ抜ける「信州姫街道」を
進行した。

沿道諸藩は吉井藩(1万石)・小幡藩(2万石)・七日市藩
(1万石)といった小藩ばかりであり、天狗党討滅を本気
では考えてはおらず、差し障りなく通り抜けることを望ん
でいた。
天狗党も無益な一戦を好まず、諸藩を刺激しないように
裏道を抜けて、下仁田(しもにた)宿にまで達した。

一方、迎撃準備をして、天狗党を待ち構えていた高崎藩
軍は、天狗党が回避行動を取っていることを知り、憤慨。
藩領内に踏み込む暴徒たちを見過ごすことはできないと
して、一戦交える迎撃作戦を展開した。
この下仁田戦争にて、天狗党は多大な犠牲を出した。
一矢を報いた高崎藩軍も36名の戦死者を出した。
多大な犠牲を出したが、高崎藩としての気概を天下に見
せつけたことで、藩の面目を保った形であった。

佐幕派としての面目を保った高崎藩は、その後、難題
に直面した。
幕末の幕政を執った敏腕政治家・小栗忠順(おぐりただ
まさ)が高崎藩近くの上州権田村に下ってきたことだ。
小栗は強硬な徹底主戦論者であったが、将軍・慶喜に
受け入れてもらえず、幕府首脳部は徹底恭順に方策が
決すと小栗は幕閣を去り、知行地である上州権田村に
引き上げてきたのである。

これに対し、官軍は危険分子である小栗を討滅すべく、
近隣の安中藩・小幡藩・高崎藩の三藩に小栗討滅を
命じた。
しかし、幕政で権勢を振るったやり手の小栗を討滅する
ことに気兼ねした三藩は、銃砲などの武器を取り上げる
程度の処置しかできなかった。

この手ぬるい処置に憤慨した官軍の過激な軍監・原
保太郎(丹波篠山(さきやま)の郷士)は、「三藩に異心
あり。官軍は三藩を討伐すべし」として、厳しい批判を
加えた。
朝敵にされては大変とあって、やむなく三藩は藩兵
1000名を動員して、権田村へ攻め込み、小栗らを捕縛
した。
翌日の早朝には、早々と小栗らの処遇は決し、何ら
罪状も告げられる事無く、小栗と三人の家臣は斬首
され、さらし首となった。
立て札には、「右の者、朝廷に対し奉り大逆を企て
候こと明白につき、天誅をこうむらしめるものなり」と
記されていた。

天狗党討滅戦を展開し、佐幕派としての強い気概を
天下に見せつけた高崎藩であったが、時代の流れ
には、いかんともしがたく、小栗ら旧幕臣たちを討ち
果たす役目を負わなければならなかった。