佐倉藩 (さくらはん)
≪場所≫ 佐倉市
佐倉藩は”南関東の学都”とまでいわれたほど、学問が
盛んであり、佐倉藩主・堀田正睦(ほったまさよし)も
”蘭癖(らんぺき)”とあだ名されるほどの西洋通であった。
正睦は藩政改革に熱心で、蘭学者の佐藤泰然(さとうたい
ぜん)を自藩に招き、病院を開かせ、これが順天堂の始ま
りである。
さらに洋式軍備にも力を入れ、日本国内でもいち早く軍備
増強を行っている。
これら正睦の藩政改革を幕府老中・阿部正弘が注目し、
彼の推挙によって、正睦は幕府老中の首座に任ぜられた。
西洋通ということもあって、正睦の幕政方針は、積極的開国
方策であった。
アメリカ総領事・ハリスは正睦に会った印象を「小男で、感じ
のよい知的な顔つきであった」と述べており、正睦が開国派
であったことをうかがい知ることができる。
条約調印の勅許を求め、上洛した正睦は、攘夷派が集まる
朝廷の懐柔策として大金を投じた。
さまざまな献上品を用意し、朝廷内の政治工作を行ったが
正睦が上洛する前に孝明天皇から公卿たちに大金に目が
くらんで天下の災害を招いては成らないと伝えられており、
正睦の思惑通りに事は運ばなかった。
また、「備中守(堀田正睦)、不埒千万(ふらちせんばん)なり
」と激しい憎悪の念を燃やす水戸藩主・徳川斉昭の横車など
もあり、政治工作は混迷を来たした。
苦悩の中、懸命の工作によって、一時は外交政策は幕府に
一任すべきことという地点まで持っていったが、これも最終
的には覆され、進展はなかった。
この複雑な外交勅許問題で混迷する中、時の将軍・徳川
家定が病弱であったため、将軍継嗣問題も絡み、政情は
混迷を極めた。
正睦の朝廷工作は、まったく効を奏さず、江戸を出発した
時は、大金を抱えて上洛しながら、帰りは頭を抱えて帰って
来てしまった。
その後、井伊大老に勅許なしでの条約調印を勧めたため、
老中職を罷免され、蟄居を命ぜられてしまう。
正睦の幕政への尽力は、何ら向かわれることなく、幕政の
独断専行が許されない時代に突入したことを示す結果と
なった。