岡部藩 (おかべはん)
≪場所≫ 大里郡岡部町


岡部藩からは、後に近代日本の財界トップが出ている。
明治時代に入り、渋沢財閥を築いた渋沢栄一(しぶさわえい
いち)である。渋沢は岡部藩の血洗島村(ちあらいじまむら)
に生まれ、実家は村一番の豪農家であった。
そのため、領内の代官から度々、御用金を出すよう申し付
けられている。
貸し金とは名ばかりで、実際はびた一文、返してはくれない
財産没収に等しかった。
17歳となった渋沢は、父の名代で代官所へ赴いた。
この時、代官から500両を用立てるよう命ぜられた。渋沢に
同行していた者はみな一もニもなく同意したが、渋沢だけは
合点がいかず、これを承知しなかった。
父の名代ではあるが、家の勝手を知っているわけではない
のだから、いったん家に戻って父に報告した上で、返事を
すると言い張った。
すると代官は馬鹿息子だの何もわからぬひねくれ者などと
渋沢をこけ下ろし、即答しろと強要した。
しかし、頑固一徹にこれを突っ返した渋沢は、返答をせずに
引き上げてしまった。
変える道すがら、いろいろと考えをめぐらした渋沢は、幕府
の横暴ここに窮まると直感した。馬鹿面した代官に何ら反論
することを許されない社会は、見てくれも実利も何もない愚
の社会と渋沢には映ったのである。
幕府への見切りをつけて家に帰ってきた渋沢は、父に事の
てん末を話したが、泣くこと地頭は仕方がないから承知せざ
るを得ないと諦め顔で承知する旨を述べた。
翌日、代官所に御用金を届けはしたものの、それでも若い
渋沢の心にはわだかまりが残った。

この一件があってから、渋沢は幕政を批判するようになり、
まもなく江戸に出張った時、尊王攘夷論を見聞して、これに
同調した。
尊攘派の志士たちと親交した渋沢は、ついには横浜居留地
焼き打ちの計画まで立てたが、遂行されずに終った。
しかし、尊攘派への加熱は冷めなかったが、たまたま一橋
家の用人から攘夷思想を捨てて、幕政への勤務を勧め
られた。
そうこうしている間に一橋慶喜に会った渋沢は、一橋家への
出仕を決意し、家臣として財政刷新に勤めた。
幕政改革に携わる一方、幕府倒壊は免れないと考える渋沢
は、胸の中で思い悩んだ。

そんな渋沢に大きな転機が訪れた。1867年(慶応3年)パリ
万国博覧会が開催されるにあたって、フランス公使レオン・
ロッシュは、将軍・慶喜を招待したいと申し入れてきた。
しかし、政情不安定の中、国政の席を空かすわけにもい
かず、代理として慶喜の実弟・徳川昭武を派遣することに
決まった。
この時、庶務会計に手馴れた者をつけるべきとの忠告で
渋沢を随行させることにしたのである。
渋沢にとっては願ってもない好機であった。西欧の進んだ
文化や経済を見て回れるのだから、これほど価値ある経験
は他にないからである。
探究心旺盛な渋沢は、パリ・スイス・イタリア・イギリスと外遊
して、その先進国の社会を見て回り、識見を広めた。
渋沢が帰国してみるとすでに幕府は倒壊し、明治という新た
な自由文化が開ける時代が到来していた。
渋沢は、この機を逃さず、実業界に身を投じ、渋沢財閥を
形成して、日本資本主義の発展に大きな貢献を残したので
ある。