小田原藩 おだわらはん
≪場所≫ 小田原市


 小田原藩の藩祖は大久保忠隣(おおくぼただちか)で
ある。忠隣は二代将軍・徳川秀忠の厚い信任を得て、
幕政で権勢を振るったが、政敵の本多正信・正純父子
が策略をめぐらし、攻撃したため、忠隣は失脚に追い込
まれた。
 その後、小田原藩は天領、阿部正次、稲葉正勝・正則
・正通と藩主が継いだ。だが、稲葉家が越後高田へ移封
となったことから、小田原藩は再び大久保家が統治する
こととなり、忠隣以来、70余年ぶりに小田原藩大久保家
が成ったのである。

 その後、富士山の大噴火や大地震・大飢饉とめまぐる
しく災害に見舞われた小田原藩は、藩の財政が貧窮し、
幕末にいたっては、商人からも融通してもらえないほど
財貨に苦慮した。
 その上、海防の急務を推進する幕府は、砲台の設置を
小田原藩に強要し、江川太郎左衛門の指導の下で三基
の砲台を建設している。
 貧窮極まりない中で、藩主・忠愨(ただなお)が病没し
、嗣子がいなかったために高松藩から養子・忠礼(ただ
のり)を迎え入れて、藩の存続を図っている。
 小田原藩では、大久保家が譜代大名ということもあっ
て、佐幕の姿勢が強かったが、いざ戊辰戦争が始まる
と旧幕府側が圧倒的不利と悟って、早々に新政府へ
恭順の姿勢を取っている。
 しかし、江戸開城が成った後に小田原藩に不運が来襲
した。江戸開城を未だ知らない旧幕府の遊撃隊が箱根
を越えて、小田原藩にやってきた。
 人見勝太郎や伊庭八郎など旧幕臣たちが続々と小田
原藩へと入ってきて、徹底抗戦を主張した。榎本武揚も
旧幕府艦隊を率いて、小田原湾に到着したと報告が入り
、ついに小田原藩も旧幕府軍と盟約を結んで、官軍に
敵対することに決した。
 そして、軍監として小田原に派遣されていた官軍の中
井範五郎ら十三名を小田原藩士たちは斬殺している。
この小田原藩の背反に官軍は驚き、小田原藩追討軍を
差し向けた。
 この事態を受けて、江戸にいた小田原藩士・中垣斉宮
(なかがきさいぐう)が帰藩して、必死に情勢を説明し、
なんとか小田原藩に勤王への変更を成すことに成功。
 小田原藩は官軍と戦うことなく恭順の意向を示し、謝罪
の意味も込めて、家老の岩瀬大江進(いわせおおえの
しん)が切腹して果てている。