高田藩 たかだはん
≪場所≫ 上越市


 高田藩は、幕府が開かれて以来、幕府のさまざまな介入
にあい、藩主が流転した藩であった。
最初は徳川家康の六男・松平忠輝が入部し、75万石の大
藩であったが、忠輝が改易処分となると、その後の藩主は
目まぐるしく入れ代わった。
結局は譜代大名で家柄は、かつて戦国時代に徳川四天王
の一人に列した榊原康政の末裔が高田藩を治めることと
なり、幕末維新を迎えている。

 幕末動乱の時代、高田藩も他藩と同じく勤王派と佐幕派
に藩論が分かれ、互いに綱引き状態が長らく続いた。
その後、江戸藩邸にいた高田藩士・酒井良佐(さかいりょう
すけ)、渡辺千之助らが、徳川家への忠勤を唱えて、同志
を募った。
 同志88名とともに酒井らは、兵団をまとめ上げ、「神木
隊(しんぼくたい)」と名付けた。神木とは、高田藩主・榊原
の榊を二分したものであった。
 高田藩主・榊原政敬(さかきばらまさたか)は、この兵団
結成に大いに慌てたが、江戸で暴走するのだから、止めよ
うがない。
 神木隊はそのまま上野の彰義隊と合流して、官軍と激戦
を繰り広げたが、わずか一日で敗退。隊は分断し、八木
操利(やぎくりとし)率いる20名は、そのまま奥羽の地へ
逃れて、会津藩とともに会津戦争を成した。
 別の一団は、榎本軍に加わり、そのまま箱館へと向かい
、その地で箱館戦争を成している。
 神木隊の暴走により、高田藩では新政府から佐幕派の
藩と見なされてしまうが、この窮地を脱すべく、川上直本
が藩論を勤王にまとめ上げ、進んで官軍に城を明け渡し
た。高田藩は長岡藩攻めの重要な前線基地となり、高田
藩軍も北越戦争に借り出されている。
 長岡城攻めに二度も借り出された高田藩軍は、二度目
の奪還戦で、隊長まで戦死するという激しい奮闘を成して
、勤王振りを現している。
 その後も会津戦争へと高田藩軍は借り出され、勤王忠誠
のために一心不乱に激戦をかいくぐった。