新発田藩 しばたはん
≪場所≫ 新発田市
新発田藩では、早くから海防の危機を募らせており、
10代藩主・溝口直諒(みぞぐちなおあき)は、海防の
急務を幕府に訴え、1808年(文化5年)に幕府より佐渡
への警備軍派遣を命ぜられている。
約半年間に渡って、佐渡を守備した新発田藩では、
次第に対外政策への議論が盛んとなっていった。
藩主・直諒は、「報国説」を著し、これが藩の方針の
基本とされた。「報国説」では積極的な開国を唱え、
熱心に尊王の志を図っていた。
そのため、藩論は尊皇開国という形を取り、同じ尊皇
思想を持つ水戸藩とは違って、欧米列強と交易を持っ
て接するという開国派に立っていた。
1868年(慶応4年)5月に、戊辰戦争は北越戦争へと
突入し、長岡藩が官軍と激戦を張ると隣藩である新発
田藩へ援軍要請が出された。
しかし、新発田藩は長岡藩・米沢藩に半ば強引に
列藩同盟に参加するよう勧められて列していただけに
あまり積極的に官軍と戦おうとはしなかった。
そのため、兵団もなかなか出さない。焦った米沢藩
は、使者を飛ばして、新発田藩に出兵を催促した。
ついには、農民が反乱を起こして、藩主が佐幕派の
軍を動かすことを押し止めようとする運動が起き、新発
田藩は軍勢を出兵できなくなってしまった。
これに業を煮やした米沢藩は、米沢藩軍を新発田藩
へ派兵すると新発田藩に強引に軍勢300と兵器の提供
を約束させてしまう。
だが、新発田藩ではもうこの時には、列藩同盟に参加
協力するつもりはなくなっており、勤王に藩論は傾いて
いた。そして、江戸家老に新政府へ接触させて、官軍へ
全面的に協力する旨を伝えている。
こうして、官軍は、なかなか落ちない長岡藩とその周
辺の北越諸藩を黙らせるべく、新発田藩へ海路上陸す
る作戦を立て、見事成功する。
こうして、新発田藩は官軍上陸とともに列藩同盟を
脱し、米沢藩や長岡藩に対して攻撃を開始したのであ
った。
その後、新発田藩は官軍に北越・奥羽の道案内を成
し、積極的に新政府へ勤王忠誠の姿勢を見せたので
あった。