富山藩 とやまはん
≪場所≫ 富山市



 富山藩は、金沢藩前田家より分派した支藩であった。
1639年(嘉永16年)、金沢藩3代藩主・前田利常の次男
・前田利次が10万石の分与を得て、富山藩が成立した。
 富山藩はわずか10万石の中堅大名の末席に位置する
藩であったが、富山藩二代藩主・前田正甫(まえだまさ
とし)は、本草学の研究を奨励し、薬草の収集・研究を
推進した。
 長崎から医術導入を図るなどして、医学と薬学を考究
し、薬草によって治療する医療を目指した。その結果、
生まれたのが”富山の薬売り”である。
 1683年(天和3年)、備前岡山の医師・万代常閑(もず
じょうかん)が考案した「反魂丹(はんごんたん)」という
薬は、全国で人気を博し、莫大な利益を富山藩にもたら
した。
 富山藩は反魂丹役所を設置し、原料薬草の吟味と
商いの取り締まりを強化し、更なる利益獲得を目指した。
 その結果、幕末の文久年間(1861〜64)の売上げは、
20万両という巨額に達してる。わずか10万石の小藩に
過ぎない富山藩であったが、薬の専売により、巨万の富
を得て、本家の金沢藩を凌ぐほどの財力を持った。
 ついには、有り余る財源を武器に富山藩を親藩にして
、飛騨高山の天領5万石の管理を任せるよう幕府に政治
工作を成している。
 この工作は、本家・金沢藩に知られるところとなり、失敗
に終っているが、これを契機として、本家の金沢藩は富山
藩の監視を強め、監視役を富山藩に派遣するまでに厳格
化させている。
 その後、戊辰戦争では四小隊を出陣させているが、目立
った行動を取る事無く、本家の金沢藩の統治下で維新を
迎えている。