鯖江藩 さばえはん
≪場所≫ 鯖江市
鯖江藩の藩祖は、側用人として一大権勢を振るった間部
詮房(まなべあきふさ)である。詮房は、甲府城主・徳川綱
豊の寵愛を受けて、立身出世を果たし、綱豊が5代将軍・
綱吉の跡目を受けて、6代将軍・家宣となると詮房はその
近侍となり、幕政に関わることと成る。
その後、5万石の大身を果たした詮房であったが、8代
将軍・徳川吉宗が幕政主導を握ると、詮房は罷免され、
上州高崎から越後村上へと移封となった。
その後、越後村上から再び移封となり、越前鯖江の地に
鯖江藩を開いたのであった。福井藩と小浜藩とに挟まれる
形で、未開の地・鯖江に藩を置いた間部家は、一心不乱
に開拓を成し、幕末を迎える頃には、それなりの賑わいを
見せる城下町を築き上げている。
幕末に鯖江藩が脚光を浴びるようになったのは、ひとえ
に七代藩主・間部詮勝(まなべあきかつ)の治世家として
優秀であったがゆえである。
詮勝は優秀な人材として、幕府からも重用されており、
困難な幕政の時代に幕府要職を歴任している。その後、
幕府老中にまで登りつめた詮勝であったが、時の老中筆
頭・水野忠邦と意見が合わず、老中職を退いている。
その後、安政期に井伊大老の片腕として再び、幕府老中
に返り咲いた詮勝は、幕府権勢の回復を目指し、安政の
大獄に手腕を発揮した。
小浜藩士・梅田雲浜、水戸藩士・鵜飼吉左衛門、三国
大学、頼三樹三郎ら反幕の姿勢を見せていた志士たちを
捕縛し、処断している。
その一方で、詮勝は朝廷工作に当たり、条約勅許問題
では、「しばらくの間は、外国人との交易を許すものの、武
備が整い次第、鎖国の旧法に復す」と内約したため、勅許
を得るに至っている。
こうした、朝廷との折衝に当たって、手腕を発揮した詮勝
であったが、井伊大老が朝廷にまで大獄の圧力を伸ばそう
としたことに反対し、意見の食い違いが生じはじめた。
その後、井伊大老と激突した詮勝は、老中を罷免され、
これをもって詮勝の政治生命は終止符を打つのであった。
その後は、文化隆興に尽力し、幕末維新を迎えている。