上田藩 (うえだはん)
≪場所≫ 上田市
幕末に入り、上田藩からは洋式兵学者・赤松小三郎が出た。
赤松らの熱心な洋式調練によって、上田藩の洋式兵団は、
諸藩でも評判となり、あの薩摩藩の兵制の見本として赤松ら
が招かれたほどであった。
しかし、先を見越した準備も莫大な投資が先立ち、藩の財政
は窮乏していた。そのため、水戸藩の天狗党が挙兵し、その
鎮圧に上田藩があたった時も、1000名の藩兵を出しながら、
被害と長期戦を恐れて、戦わず見送っている。
この弱腰な姿勢を笑われるという失態をおかしている。
戊辰戦争が勃発すると藩主自ら藩の姿勢として幕府に殉ずる
と内外に宣言していたが、いざ官軍が進撃してくると、時の
優劣を悟り、新政府側へと寝返り、官軍への支援を成した。