飯田藩 (いいだはん)
≪場所≫ 飯田市


水戸藩で生まれた過激派尊攘の兵団・天狗党は、
形勢挽回を求めて、上洛の旅路についた。
途中、幕命を受け進行阻止に動いた松本藩・諏訪
藩を打ち破った天狗党は、伊那谷を下って飯田藩
領内へと進行した。
同じく幕命を受け進行阻止の任を負った飯田藩で
はあったが、天狗党のただならぬ気迫に押され、
手出しをせずに見過ごす方策をとった。
戦火を免れた飯田藩ではあったが、幕府は幕命
に背いたとして、峠の関所預かりの権限を剥奪
し、幕府の不評をかった。

飯田藩では平田国学が浸透し、学問が盛んとな
っていた。その影響か幕末屈指の女流勤王家・
松尾多勢子(まつおたせこ)が出ている。

19歳で嫁ぎ、六男四女をもうけているが、1862年
(文久2年)に52歳という年齢にして、京都へ赴き
平田国学門下生らとともに尊攘運動に身を投じた。

歌を詠み、公卿との親交を深めた多勢子は、宮中
と尊攘派志士たちとの橋渡しや情報収集に努めた。
多勢子は品川弥二郎・久坂玄瑞・藤本鉄石・太田
垣蓮月(たたがきれんげつ)・高畠式部(たかばた
けしきぶ)らと協調関係にあった。

1863年(文久3年)、等持院(とうじいん)にある足利
将軍木像が梟首(きょうしゅ)される事件が起こった。
これに憤怒した京都守護職の松平容保は、尊攘派
志士たちへの弾圧を強め、多勢子も標的にされた。
多勢子は危険を感じ、長州藩邸に難を逃れている。

8・18の政変にて、尊攘派の居場所が京中になくなる
と多勢子はいったんは帰郷したが、1868年(明治元年
)に再度上京し、岩倉家に出仕し活躍の場を得た。
志士たちの間では、「岩倉の周旋老婆(しゅうせん
ろうば)」や「女参事」などと多勢子を評し一目置いた。

戊辰戦争では、多勢子は自分の長男らを従軍させ、
勤王の忠誠を表した。晩年は故郷にてひっそりと農業
に従事し、天寿を全うした。