小島藩 (おじまはん)
≪場所≫ 清水市


1868年(慶応4年)8月、戊辰戦争真っ只中に榎本武揚が率
いる旧幕府軍艦が上野で官軍に敗れた彰義隊士らを乗せて
北海道の箱館へ向かう途中、運悪く暴風雨に遭遇してし
まった。
軍艦は破損をきたし、清水港へと一時、停泊を余儀なく
された。四隻あった軍艦のうち、三隻の修理は早く済み、
早々に北海道へ向けて出航したが、残りの一隻はなかなか
修理に時間がかかった。
その船は、勝海舟が艦長を勤め、渡米を果たした咸臨丸
であった。咸臨丸の守備兵が少ない中、官軍の軍艦三隻
がこの咸臨丸を目ざとく見つけ、砲撃してきた。
不意を襲われた旧幕府軍は抵抗らしい抵抗も見せられず、
敗北し逃げ惑った。
赤心隊の太田健太郎らが残党狩りに協力し、旧幕府軍の
残党はことごとく、見つかり次第に斬首された。
咸臨丸は官軍の軍艦に引かれて、没収の憂き目となり、
戦死者の死体はそのまま打ち捨てられた。
官軍を気兼ねして地元の人々も戦死者を葬ることができず
にいるなか、清水次郎長(しみずじろちょう)が見るに見か
ねて、遺体を集め丁重に葬り、盛大な葬儀まで取り仕切
った。
この深い度量を見せた清水に感銘を受けた幕臣の山岡鉄
舟は、彼を賞賛し、以後入魂の仲となる。
清水も清廉潔白で武士の鑑のような態度を表す山岡に心
打たれ、それまで自分がやってきたイカサマ博打や刃傷
沙汰(にんじょうざた)の行為を改めたという。
そして、富士裾野の開拓事業に尽力し、回漕問屋(かいそう
どんや)を営み、さらには英語塾まで開いて、地域の興業
振興に貢献した。