相良藩 (さがらはん)
≪場所≫ 榛原郡(はいばらぐん)相良町


相良藩は、10代目将軍・徳川家治の側用人・老中・
若年寄を歴任して、実権を握った田沼意次の藩であった。
江戸の町で商業の活性化を狙った意次であったが、逆に
幕府役人と商人との間で賄賂が横行し、幕政を汚職して
しまい失策した経緯がある。

それでも幕末期では、佐幕派として幕府から重用な任務を
受ける存在であった。
特に水戸藩天狗党の兵乱では、天狗党が筑波山麓に
布陣して幕府軍と応戦し、その包囲を打ち破り、上洛へと
向かうと、幕府は第二次討伐隊を編成。
1万3000もの大軍を擁し、その総督には相良藩主・田沼
玄蕃頭が就任した。
田沼は諸藩の軍兵をよく動員して、天狗党を追撃し、激し
い激戦を繰り返した。それでも天狗党は上洛の夢を捨て
きれず、追撃部隊や阻止部隊を突破して、越前敦賀まで
進軍した。
しかし、そこで頼みの綱となっていた水戸藩出身の一橋
慶喜が京都より天狗党討伐部隊を率いて来るとの知らせ
が入ると気力が一挙に低下し、迎撃する力もなく天狗党は
加賀藩に降伏した。
加賀藩は武士の意地を天下に見せつけた天狗党の有志
たちを丁重に扱ったが、幕府側に身柄が引き渡されると
総督の田沼は全員死罪という苛酷な処置を断行した。