刈谷藩 (かりやはん)
≪場所≫ 刈谷市
刈谷藩からは、天誅組の大和挙兵に参加した、松本奎堂
(まつもとけいどう)・宍戸弥四郎(ししどやしろう)・伊藤
三弥(いどうさんや)の三名が出ている。
松本奎堂は、江戸に遊学し、昌平學に学んで、詩文の才
で頭角を現した。殺伐とした雰囲気の多い行動を取った
天誅組ではあったが、意外と詩文など風流に富んだ人物
が多い。
遊学を終えた奎堂は、上洛を果たし、そこで梅田雲浜や
頼三樹三郎(※頼山陽の三男)など有志と親交を深めた。
奎堂は18歳の時、槍の稽古で左眼を失う不幸に遭遇し、
片足も不自由とあって、風采はあまり上がらなかったが、
持ち前の勇敢さで活発な活動を成した。
天誅組の大和挙兵に同調した奎堂は、わずかな手勢を
率いて紀州藩軍と戦ったが戦闘中に残りの片方の目も
見えなくなるという悲運に遭う。
しかし、それでもめげない奎堂は、駕籠に乗って陣頭指揮
を取り、勇敢さを現したが、激しい激戦にて、流れ弾にあ
たり、負傷すると敗北を悟って自刃して果てた。
宍戸弥四郎は奎堂とは竹馬の友であり、山鹿流(やまが
りゅう)兵学者であった。
すこぶる槍術が上手く、勇敢さでも奎堂に負けないほど
であったが、彦根藩軍と激戦の末、川に落ちて討ち取
られた。
彼ら勤王派の勇敢な有志たちの活躍があったにもかか
わらず、藩内ではなかなか勤王と佐幕のどちらにつくべ
きか結論が出なかった。
当初、幕府よりであった藩の三家老も尾張藩の意向を
見て、ついに勤王派になることを決断したが、そうとは
知らない急進勤王派の藩士たちの手によって、誅殺され
てしまう。
三家老の首は、刑場にさらされ、”三家老死んで、あとが
よかろう”との落首が掲げられていたという。
優柔不断な決断が生んだ悲運であったが、それにもま
して、早急な旗揚げをした天誅組の結末は、幕末屈指の
悲運な最後であった。