田原藩 (たはらはん)
≪場所≫ 渥美郡田原町
幕末初期の逸材である渡辺崋山が出ている。
崋山は江戸藩邸で生まれ、天性の才知を伸ばし、江戸
詰家老へと昇進し、藩政改革に従事した。
また、海防掛の職務も兼任し、蘭学や諸外国の情勢を
つぶさに研究し、対外政策に強い関心を持った。
そして、同じく対外政策に関心を持つ、高野長英らと
尚歯会(しょうしかい※蛮社(ばんしゃ)ともいう)を結成
し、対外政策について議論した。
また、崋山は絵画をもって、家計の足しにしようとし、
画家の谷文晁を師事して、当時の江戸庶民の暮らしを
風景画として描き、画家としてもその名を馳せた。
鎖国問題や対外問題でピリピリしていた幕府は、開国
論などを主張する尚歯会をにらみ、幕府批判の集団と
決め付けて、弾圧に踏み切った。
高野長英は永牢(えいろう)の処分を受け、崋山も国元
へ送還され、蟄居処分となった。
憂国の想いで議論を発展させようとする試みを弾圧と
いう不名誉な処遇を受けた崋山は、蟄居中に発奮し、
「不忠不孝渡辺登」と大書して割腹自殺を遂げた。
崋山は最後まで自分の遺志を受け継いでくれる有志
がいるであろうかと心配していたが、その遺志を継い
だのが崋山の門弟・村上範致(むらかみのりむね)で
あった。
村上は、兵学に関心を持ち、幕府の下で西洋流兵学
を指導していた砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)
を訊ねた。
そこで、幕命にて公開の洋式銃隊調練と砲術の試射を
参観した村上は、西洋兵器の火力の凄さに驚き、西洋
兵学を修得することを決意した。
この決意を師匠である崋山は大いに誉め、どうせなら
その分野の大家となることを目指せと激励している。
こうして、高島から西洋兵学を熱心に学んだ村上は、
田原藩の軍制改革の主導を成し、ついでに2本のマスト
を持つ西洋型帆船・順応丸(じゅんおうまる)を建造する
主格として活躍した。
韮山で江川太郎左衛門が鋳砲を行ったと聞くと自らも
早速、鉄身の大砲の鋳造に取り掛かり、江川の鋳造
からわずか一年後には、成功に達するという成果を
上げた。
1853年(嘉永6年)には青年藩士らで構成された「野戦
筒組合」を組織し、藩の軍制を強化した。
この軍制では、5人を一組として12部隊に編成され、
最新鋭兵器・ドンドル銃(雷管銃)を装備し、当時として
は驚異的な火力を誇る部隊であった。
その上、江戸と田原を往復する田原藩帆船・順応丸の
姿は海上で異彩を放ち、軍制改革を成功させた田原藩
の象徴的な存在となった。
諸藩はこの田原藩の近代兵団に目を見張り、砲術修業
のために田原藩に諸藩の有志が群がって教えを請う
ほどであった。