大垣藩 (おおがきはん)
≪場所≫ 大垣市


大垣藩は譜代大名であったため、幕府とは親密な関係に
あることから佐幕派としての意識が強い。
大政奉還後も藩内では、佐幕派の思想が強く残り、旧幕府
への支援をする趣旨を表していた。
京都に近いこともあって、朝廷側からはたびたび出京要請
が出され、新政府へ順応するよう命ぜられていたが、大垣
藩はこれにそうやすやすとは応じなかった。

藩の財政改革に大きな実績を上げた経世家・小原鉄心(
おばらてっしん)は藩家老としての立場から、時勢をよく
読み取り、勤王への忠誠なくして藩の存続は有り得ないと
考えていた。
鉄心の想いを察知した新政府は、大垣藩に命じて、鉄心を
上京させ、参与の要職につける旨を伝令した。
藩内から新政府の要職が出るならば、大いに歓迎すべき
との空気が流れたが、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると鉄
心の子・小原兵部は、佐幕派に流れ、大坂城警備にあたっ
ていた大垣藩兵を率いて旧幕府軍の先鋒隊となって
しまった。
父・鉄心は新政府側に立ち、子の兵部は旧幕府軍に立った
のである。
大垣藩内でも勤王か佐幕かで藩論が分かれ、去就が揺れ
動いていたため、鉄心は藩主をはじめ藩の重臣を列席させ
た会議で、長々と今の時勢を説き、時勢に逆らうおろかさを
訴えた。
この長時間にも及ぶ、会議の結果、決議は勤王に決した
のである。