津藩 (つはん)
≪場所≫ 津市


彦根藩と共に津藩は、幕藩体制の二大支柱として、西国
諸藩の兵乱の防壁として重要な役務を負っていた。
藩祖は戦国時代屈指の政調政治家・藤堂高虎である。

1867年(慶応3年)夏ごろ、尾張・三河地方で伊勢神宮の
お札が天から降ってきたと噂が流れ、”ええじゃないか”
の狂乱踊りがはじまった。
この民衆の狂乱は瞬く間に全国へと広がり、津藩内にも
一挙に広まっていった。
藩でも伊勢神宮を有する以上、噂を否定するわけにも
いかず、祭りには参加するなと藩士たちには伝令したが
家内で神酒にて祝う程度はしてよいとした。

王政復古の大号令が出されると、津藩としても勤王か佐幕
か去就を明確にすべき時がきた。
大坂の関門である山崎を守備していた津藩の動向は重要
で、旧幕府軍からは何度も参軍要請が来た。
しかし、津藩の返事はいずれもはっきりしないものだった。
佐幕派ではあったが、西国雄藩を近隣がひかえているだ
けにうかつな行動は取れない。
薩長側でも戦略上の重要拠点として、津藩の勧誘に熱心
で、朝廷に出仕せよとの伝令が通知される。
津藩は結果的に迷いに迷いながら、決断がつかず、中立
の立場を取った。

朝廷からの勅使は、津藩軍の陣営の後方に位置する
高地に上り監視していたが、いっこうに動く気配を見せ
ない。
そのうちに勤王派の徳山藩軍が進出してきて、津藩が
あくまでも中立の立場を取るというのであれば、津藩が
所有する大砲を徳山藩軍に貸して欲しいと要請した。
いわば、徳山藩に腰抜け呼ばわりをされた津藩は、憤慨
してついに勤王派につくことを宣言。
淀川対岸に布陣する旧幕府軍に砲撃を開始した。
これに驚いた旧幕府派の淀藩軍は、急に勤王派に寝返り、
これによって、旧幕府軍は総崩れとなった。
元将軍・徳川慶喜は、もはや旧幕府軍に勝ち目はないと
見定め、兵乱の早期鎮圧を望み、自らは江戸に出奔して
恭順謹慎することとなった。

官軍勝利の要因を作った、津藩への賞賛は高いが、佐幕
派の諸藩からは”藤堂の犬侍”と激しく軽蔑されたという。
勝因を作った軍功にて、津藩は新政府より2万石の加増を
拝領している。