郡山藩 (こおりやまはん)
≪場所≫ 大和郡山市


郡山藩の祖は、幕府側用人として権勢を振るった柳沢吉保
である。その吉保の家訓は、「将軍家に弓引くものは、わが
子孫にして子孫にあらず」であった。
これは、徹底佐幕派の立場を謳った教訓となるが、幕末期
の郡山藩は必ずも筋金入りの佐幕派ではなかった。

藩領はもともと天皇・朝廷とは深いかかわりがある土地柄
で、天皇の陵墓も多く、勤王の教えも民衆に深く浸透して
おり、藩上層部の佐幕主義だけでは、いかんとも動かし
難い風土であった。

1863年(文久3年)8月、藩内にて天誅組の挙兵が起こる。
天誅組は、強硬な尊攘倒幕派で、朝廷内が尊攘派主導
で動いていることを受けて、挙兵した急進派部隊であった。
しかし、8・18の政変にて、幕府の巻き返しに遭い、朝廷
内は公武合体派が主導権を握ると事態は急変する。

幕府は孤立無援となった天誅組を討伐すべく、京都守護職
に命じて、討伐部隊を編成させた。
京都守護職からの伝令にて、畿内大小十数藩が天誅組
討伐に協力することとなり、郡山藩・彦根藩・和歌山藩・
津藩の四藩が討伐部隊の主力構成となった。

御三家の2番手である和歌山藩は早々に部隊を組織し、
藩兵を出撃させたが、郡山藩はあまり乗り気がしなく、
和歌山藩に遅れること10日あまりも過ぎてから集合地点
に出撃してくるという有り様で、周囲からは「おくれ山勢」
と冷笑や非難をされた。

天誅組は、はやまった行動をなしたと後悔したが、後の祭り
である。幕府から追討を受けたが、しぶとく要害の地を利用
して奮闘したが、救援がなくては戦況の挽回も難しく、次第
に劣勢を強いられ、各方面で敗退した。
1000名足らずの参加者たちも幕府追討軍1万人の前では
無力に等しく、挙兵1ヶ月余りで鎮圧された。