三田藩 (さんだはん)
≪場所≫ 三田市
三田藩九鬼氏の祖・九鬼義隆は、戦国最強と謳われた
九鬼水軍を率いた戦国武将だった。
脅威の水軍力を持っていたためか、領地代えを命ぜられ、
海のない領土を収める結果となった。山間部の盆地へと
追いやられたことへの不満が幕末で現れたのか、王政復古
の大号令が発せられると、勤王派としての立場を取り、
1868年(明治元年)新政府が政権を執ると早々に岩倉具視
に版籍奉還を申し出ている。
余りにも早すぎる申し出のため、「一藩だけでは奉還の意味
がない」とたしなめられ、時期尚早な行動を非難されている。
三田藩最後の藩主・九鬼隆義(くきたかよし)は開明的な人物
で、積極的に実業界へ進出し、日本近代化へ邁進した。
また、三田陣屋跡にキリスト教会を立て、開堂式には新島襄
を司会に招き、250名の信者が集まった。
支藩で同じ一族出の九鬼隆一(くきりゅういち)は、明治時代
に美術行政家として活躍し、フェノロサに啓発され、岡倉天心
の芸術活動を手助け、帝室博物館の館長にもなった。
三田藩医の子・川本幸民(かわもとこうみん)は、その逸材を
藩主に認められ、江戸遊学を許されて、蘭医学を学んだ。
帰藩後、藩医となり、その後は江戸で医業を開き、日本医学
の前進に貢献した。
また、幸民は理化学にも精通し、幕府の蕃所調所教授に抜
擢され、学識伝授の任を成した。
幸民の学識の高さに敬服した薩摩藩主・島津斉彬は、幸民
を薩摩に招き、造船・兵器製造・弾薬・機械・石鹸・ビール・
マッチといった西洋技術を駆使した研究開発に幸民の協力
を仰ぎ、薩摩藩の藩政改革に貢献した。