姫路藩 (ひめじはん)
≪場所≫ 姫路市


姫路藩の酒井氏は、出自が徳川家と同じで縁戚となる譜代
大名である。縁戚ではあるが徳川家の重臣として活躍し、
幕府政権でも屈指の家柄であることは間違いなく、佐幕派
として幕末動乱に活躍を見せている。

姫路藩八代目藩主・酒井忠績(さかいただしげ)は、藩主就任
後、間もないながら佐幕派としての幕府から引っ張り出され
ている。

1861年(文久元年)に開国したばかりの横浜警備の任を
負い、翌年には京都所司代となった酒井忠義(さかいただ
あき)の補佐役を務めている。
ついで、1863年(文久3年)には将軍・家茂が上洛するに
あたり、江戸城留守居役を命ぜられ、家茂が江戸へ帰還
すると今度は、老中首座に抜擢され、常に幕政での重要
任務を負った。
8・18の政変の際には、公武合体派の構成処理の要務を
務め、佐幕派の中心となって、奮闘した。

藩主の佐幕派としての奮闘振りとは、裏腹に国元である
姫路藩内では、尊攘派の動きが活発と成った。
藩家老の養嗣子・河合良翰(かわいよしさと)を中心として、
秋元安民(あきともやすとみ)・斎藤勘介(さいとうかんすけ)
・河合宗元(かわいむねもと)・河合宗貞(かわいむねさだ)
・境野意英(さかいのこれひで)・武井守正(たけいもりまさ)
といった気力盛んな有志たちが集った。
天誅組挙兵の際には、河合宗貞・武井守正らが参加し、
これを支援するため、藩家老である河合良翰から融資
を得た武井が天誅組の軍資金として、松本奎堂に渡して
いる。

この尊攘活動を察知した筆頭家老の高須広正(たかすひろ
まさ)は、譜代大名である姫路藩内に尊攘派を養うをよしと
せず、弾圧に走った。
この弾圧を感じ取った尊攘派の河合宗元は、先手を打って
広正暗殺を計画したが、逆にこの計画が発覚して、広正の
尊攘派志士たちへの弾圧理由を作り出した。

河合宗元は自宅禁固となり、その後は投獄された。
ついで、広正の姉婿である境野意英を通じて、尊攘派藩士
の検挙を成そうとしたが、意英は尊攘派の河合宗貞の実父
であり、意英も尊攘派活動に加わっていたため、広正への
協力は当然しない。
しかし、意英の部下が意英を裏切り、広正に志士たちの
密書を渡すと尊攘派の動きは筒抜けとなってしまった。
この尊攘派藩士たちの密謀は、藩主・忠績へと報告され、
驚いた忠績は、尊攘派と発覚した家老の河合良翰を幽閉
し、その他の尊攘派藩士たちも次々と検挙され、投獄さ
れた。
この事態に意英は自分の失態から同僚を窮地に陥れて
しまったことを恥じ、自刃して謝した。
その後、長州藩へ逃亡を図った河合宗貞も捕まり、尊攘派
藩士たちへの厳しい取り調べが成された。
1864年(元治元年)12月、尊攘派藩士たちへの処置が決ま
り、即日刑罰は執行された。
首領である河合宗元ら6名は切腹となり、河合宗貞ら2名は
斬首とされ、その他の者も永牢・閉門・蟄居という弾圧振り
で、姫路藩尊攘派の有志たちは殲滅された。
この一連の事件をその年に干支にちなんで”甲子の獄(
かつしのごく)”と呼んだ。

尊攘派の弾圧が成された後、時代は移り変わり、王政復古
の大号令が発せられ、尊攘派の天下となると、姫路藩は、
1868年(慶応4年)7月に勤王派の河合良翰らを幽閉から
解き、新政府へ配慮する形を取った。
勤王派の藩士たちは息を吹き返し、今度は佐幕派藩士たち
への糾弾と弾圧を開始した。
これを”戊辰の獄”と呼んだ。

この勤王派への弾圧を解く前に起きた鳥羽・伏見の戦いで
姫路藩は、旧幕府側を支援したため、朝敵扱いとされ、
藩内では存亡の危機で騒然となった。
隠居していた酒井忠績と藩主・酒井忠惇(さかいただとし)
は藩内にいなかったため、藩の重臣たちによる会議で、
藩の方針を決めることになった。

決議の結果、姫路藩は新政府へ恭順することとし、城を
明け渡すことを申し出た。
それでも長州藩は、勤王派藩士たちを断罪に処した姫路
藩の姿勢を許せず、徹底武力討伐を主張し、その意向を
汲んだ岡山藩軍によって、一時は姫路藩に砲撃が加え
られる事態となった。
砲撃されても徹底して恭順の意を示したことで、ようやく
許され、新政府の統治下で明治時代を迎えた。