赤穂藩 (あこうはん)
≪場所≫ 赤穂市
赤穂藩といえば、忠臣蔵で有名であるが、その忠臣蔵を
誘発させた、江戸城刃傷沙汰を起こしたのは、浅野長矩
であった。
江戸城刃傷沙汰にて、浅野家は改易となり、その後釜と
して赤穂に乗り込んできたのが、森家であった。
幕末期に赤穂藩から出た逸材は、鞍懸寅次郎(くらかけ
とらじろう)である。若くして秀才の誉れ高く、江戸遊学を
成して、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩
の会沢正志斉らに学んだ。
24歳の若さにして、足軽の身分から勘定奉行に抜擢され
、藩政改革に携わったが、保守派などの反対派に活動を
阻止され、追放の憂き目を見る。
師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成
に務めていたが、その有能振りをかわれて、津山藩の
国事周旋掛となった。
鞍懸が就任した直後、津山藩領である小豆島(しょうど
しま)にてイギリス軍艦が停泊し、誤ってイギリス水兵が
島民を銃殺してしまうという事件が勃発した。
イギリス軍艦は、遺族のものにわずかな物を与えて、早々
に引き上げてしまった。
この一件を聞いた鞍懸は憤慨して、自ら島に渡り、島民
から事のてん末を聞き、詳細に調べた上で、幕府に訴え
出た。
しかし、幕府はイギリスと問題を競う気概がなく、イギリス
を訴えようともしない。
それでも鞍掛はしつこく熱心に督促して、ついにイギリス
から賠償金洋銀200枚を支払ってもらうことに成功する。
鞍懸のように地道な学者肌を出した赤穂藩であったが、
もっと大胆な行動に出た逸材も現れた。
赤穂藩の医者の子で幕府歩兵奉行を務めた大鳥圭介
(おおとりけいすけ)である。
大鳥は大坂の緒方洪庵が開いていた適塾で学問を学び、
江戸に出ては、江川太郎左衛門から兵学を修得した。
大鳥の有能振りを見た江川は、大鳥を幕臣に推挙し、
以後は幕臣として活躍の場を与えられた。
江戸城が無血開城となると大鳥はこれに強硬に反対し、
主戦論を唱えて、徹底抗戦の覚悟を内外に示した。
1868年(慶応4年)4月、大鳥は浅草に集結した旧幕府
支持派500名を率いて下総市川に移り、部隊編成を
行った。新選組副長を務めていた土方歳三を部隊の参謀
に抜擢し、幕府ゆかりの日光へと進軍した。
途中、小山の地で官軍を破り、宇都宮城を占拠。
旧幕府軍の拠点と定めたが、薩長の精鋭部隊が強襲して
来るとこれにはかなわず、会津藩へと敗走した。
会津藩若松城が落城すると大鳥は、仙台松島湾から榎本
武揚が率いる艦隊に収容され、一路北海道、箱館へと
向かった。
そこで、五稜郭を拠点に共和制を布き、榎本を頭領として、
独立政権を樹立した。
しかし、1年も経たずして、官軍の攻撃を受け、抵抗むなしく
敗北し、新政府へ降伏した。
戦後派新政府へ出仕し、フランス陸軍の用兵術などを修得
していた大鳥は、政府内でも重用され、朝鮮公使や枢密
顧問官など要職を務めた。