鳥取藩 とっとりはん
≪場所≫ 鳥取市


 幕末動乱の鳥取藩の藩主は、池田慶徳(いけだよしのり)
で、水戸藩の徳川斉昭の五男であった。そのため、水戸学
の影響を受け、尊攘派の旋風が藩内に巻き起こった。
 藩内では元々、佐幕の思想が強かったが、新鮮味のある
尊攘派思想に傾倒する藩士も多く出た。

 藩主・慶徳も尊攘派思想で改革心の強い堀庄次郎(ほり
しょうじろう)ら逸材を登用して藩政改革を推し進めている。
 堀たちは軍制の整備や学問改革を成している。これら
改革政策は「安政御改正」と呼ばれ、順調に藩政改革は
成果を挙げていった。
 一時は薩長土肥因(さっちょうどひいん※因は因幡のこと)
と称されるほど雄藩として注目を集めた。しかし、藩内では
常に尊攘派の改革一派と佐幕派の守旧一派の二極が存在
し、藩の実権をめぐって抗争を成した。

 1863年(文久3年)、攘夷親征の議論が巻き起こると鳥取
藩主・慶徳は、京都に向かい意見を述べている。藩内の
尊攘派たちは慶徳が積極的に尊攘思想を意見すると思い
込んでいたが、実際は公武合体論に慶徳は傾倒し、攘夷
親征に反対する立場を見せた。
 これに憤慨した、尊攘派で京都・伏見留守居役の河田
左久馬景与(かわださくまかげとも)とその一派22名は、
補佐を誤り、藩主をそそのかしたと称して鳥取藩の重臣を
本圀寺の宿舎にて襲撃し、これを斬殺した。
 襲撃後、自首した河田らは、謹慎処分となり、軟禁生活を
強いられたが、後に鳥取藩へ送還され、幽閉の身となった。

 第一次長州征討の際、鳥取藩は幕命を受けて、出陣準備
を成していたが、その時に鳥取藩の勤王一派を代表する
堀庄次郎が鳥取藩士に暗殺されると急速に、藩論は佐幕
派となった。

 その後、過激尊攘派の鳥取藩士・河田左久馬は、藩内の
迫害を逃れ、長州へと逃亡し、戊辰戦争では、参謀職に
就いて活躍した。
 維新後、新政府に出仕した河田は、初代鳥取県権令と
なって大身を果たしている。