津和野藩 (つわのはん)
≪場所≫ 鹿足郡(かのあしぐん)津和野町
幕末動乱が激しさをます中、津和野藩主・亀井茲監(かめい
これみ)は、隣藩である長州藩の動向を注視し、第一次、第二
次征長が勃発して、幕命による出兵命令を無視し、出陣し
なかった。
長州藩の果敢な国事への取り組みを正当に評価していた津
和野藩は、幕府を見限り、長州藩に内応する形をとった。
藩校・養老館では、教学改革を成し、漢学・数学・兵学のほか
に国学や医学を加え、蘭医科が設置された。
この藩校からは、”日本近代哲学の父”といわれる西周(にし
あまね)が出ている。
西は漢学にあきたらず、脱藩して江戸に遊学し、蘭学を修得
して、さらには中浜万次郎に師事して、英語を熱心に学んだ。
1862年(文久2年)からはオランダのライデン大学にて学び、
西欧学問の吸収に勤しんだ。
これら諸事の努力により、1867年(慶応3年)には将軍・徳川
慶喜に呼ばれて、「議題草案」を作成し、これをもって日本最
初の憲法草案を成した。
明治時代に入り、西は兵部省に出仕し、陸軍大臣・山県有朋
の下で「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」の起草にも携わった。
日本近代哲学における貢献は多大で、現在使用されている
「哲学」や「心理学」の訳語は、西による造語であった。
西と同じく藩校での逸材に軍医で小説家の森鴎外がいる。
鴎外は8歳にして藩校に入学し、神童の誉れが高い麒麟児
であり、近代日本文学を開拓した。