岡山藩 (おかやまはん)
≪場所≫ 岡山市


幕末期の藩主・池田茂政(いけだもちまさ)は、あの水戸藩
主・徳川斉昭の九男で、岡山藩の継嗣となった人物である。
それゆえ、15代目将軍・徳川慶喜の実弟であった。
しかし、この出自が微妙で、父が尊攘派の始祖であれば、
兄は幕府将軍となり、勤王派と佐幕派の間に挟まれる形
となった。

近隣には長州藩があり、過激尊攘派として藩内への影響も
強く、倒幕派の思想が広がるにつれ、岡山藩も倒幕派へと
傾倒していき、藩主・茂政は実兄との対決に苦悩するように
なる。
長州藩が幕府により征長戦を喰らうと、岡山藩は長州藩へ
の寛大な処置を願い、幕府ににらまれることとなる。
幕府からは尊攘派の一藩と位置付けられていた。
幕府からは嫌疑をかけられ、長州藩への支援も思い切って
できないため、長州藩からも動向が不審と映っていた。

どちらにも煮え切らない態度を示していた岡山藩も、時代が
移り変わり、薩長による倒幕行動が本格化すると長州藩から
岡山藩に勤王派となって助力するよう協力要請が入った。
藩主・茂政は態度を決めかねていたが、藩家老は即座に
「本藩も願うところであり、死力を尽くして朝廷を守護する」と
応えた。
長州藩と岡山藩との間で、戊辰戦争が上手くいかない場合、
天皇と朝廷を岡山、長州のいずれかに守護して移すという
約束が結ばれたのである。

こうして、勤王派の藩として重責を負った岡山藩は、1868年
(慶応4年)1月に勤王への忠誠を誓う方針を決定した。
兄・慶喜が幕府将軍という立場に就いていながら、弟の茂政
は勤王派の中枢を担う立場に立つという不思議な現象が
起きたが、これには父・徳川斉昭の訓示が深くかかわって
いた。
すなわち、斉昭は佐幕派の精神は大事としながらも、何にも
まして第一と考えるべきは、天皇・朝廷への忠義であると
したからだった。たとえ、幕府が滅ぶとも天皇・朝廷を決して
滅ぼしては成らないと厳しく言い聞かせていたのである。
それは、水戸学が日本古来の成り立ちを把握し、天皇・朝廷
こそ、日本を代表する政権組織であり、幕府はあくまでもその
代理という立場は、いつ何時も変わらないと定めているから
であった。
この水戸学が見出した真理を斉昭は忠実に守り、尊王の志
を現したのである。そして、その斉昭の訓示を茂政も慶喜も
ともによく理解し、幕府が倒れるとも天皇・朝廷を盛り立てる
ことだけは、事欠いてはならないと判断したのである。
それゆえ、天皇・朝廷をないがしろにするような行動を二人
は決して行わなかったのである。
彼ら二人が必死で行動の規範と成したのが、水戸学であり、
そこから派生した尊王・勤王の志は、幕末維新の王道の理
論であり、私的な行動に移らず、自重した行動によって、
日本国内の兵乱は速やかに併呑するに至ったのである。
その意味で、茂政、慶喜の私事を自重し、天皇・朝廷を尊重
する行動は、幕末維新屈指の功労に値する行為であったと
いえるだろう。