松山藩 (まつやまはん)
≪場所≫ 高梁市(たかはしし)


幕末期に松山藩からは偉大な逸材が現れている。
後に”松山藩の新井白石”とまで高評を博した山田方谷(や
まだほうこく)が出ている。
学識高くして、29歳の時に江戸へ遊学を果たし、佐藤一斎
の門下となり、陽明学を修得した。
同門には佐久間象山がおり、二人は毎晩のように議論をして
日本の行く末などを案じ合った仲であった。

方谷の学識を藩政改革に活かしたのが松山藩主・板倉勝静
(いたくらかつきよ)であった。方谷の逸材を見抜き、藩の元
締役兼吟味役という要職に抜擢し、財政建て直しの政務を
一任した。

方谷は単なる漢学者に過ぎなかったが、知識は膨大で、政治
・経済にも明るく政務は明確な成果を挙げていった。
藩内に贅沢禁止を出し産業の振興に尽力し、中でも鉱山
開発に力を入れて、巨万の富を藩にもたらした。

かつて松山藩の参勤交代の行列を”貧乏松山が通る”とまで
悪評していた汚名を返上させる財政の潤沢化を成したので
ある。
この方谷の活躍ぶりを崇敬した長岡藩士・河井継之助は、
自ら方谷を訊ね、師事をして親しく教えを受けている。

松山藩が藩政改革に大成功を収めると幕府は方谷とその
逸材を重用した藩主・板倉勝静を有能な人材として、幕政
に参加させるようになる。
勝静は祖父に白河藩主・松平定信を持ち、父は桑名藩主・
松平定永であった。勝静30歳の時、継嗣がなかった松山藩
が勝静を13代目藩主として迎えたことで、勝静の人生は好
転へと向かう。

方谷を重用して藩政改革に成果を挙げた勝静は、32歳の
時に幕府の奏者番(そうしゃばん)となり、幕臣の出世街道
に入った。
奏者番は将軍に直々に仕え、将軍の意向を諸大名に伝え
たり、諸大名との間を取り次いだりする要職で、礼式など
に関する事務処理一般を担った。

幕政の組織内で経験を積んだ勝静は、続いて寺社奉行に
就任し、着実に幕政の要務を担っていった。
出世街道を順調に登っていた勝静は安政の大獄に遭遇
する。勝静は知恵袋である方谷に意見を求めると、方谷は
尊攘派の中心人物を二人ほど罰する程度に止めて、禍根
を残さないようにすべきと進言した。

勝静も我が意を射て、厳罰で望む態度を示す井伊大老に
寛大な処置にすべきと忠告した。
勝静は「苛酷に罰せば、人心は離れ、予測できない不幸を
招く恐れあり」と諌めたが、幕府の権勢を天下に示そうと
息巻く井伊大老は、勝静を罷免し、強硬に厳罰を断行した。

勝静が危惧した通り、1860年(万延元年)に桜田門外の変
が勃発し、井伊大老は浪士たちに斬殺されてしまう。
強硬派の幕臣が倒れ、幕政が滞ると幕府は1861年(文久
元年)に再び、勝静を寺社奉行に任じ、幕政の統制を図った。

1862年(文久2年)、公武合体を積極的に推し進めていた幕府
老中・安藤信正が坂下門外の変で失脚すると、この難局の
中、勝静が幕府老中となった。38歳という若さでの要職就任
であった。

幕政の中枢に入った勝静は主に外交と財政の二面を担当し、
混迷する国事の取り扱いに日々、奮闘した。
異例の若さで老中職に就いたため、周囲のものからは、
小侍と馬鹿にする者が多かったが、その後、メキメキと手腕
を発揮し、「新閣老の板倉殿、ますます世評がよろしく」と
高評を博すようになる。

1864年(元治元年)に入ると勝静は、政局を判断して老中職を
辞任した。新たに幕命によって、長州征伐の任を受けた勝静
は、藩政を方谷に任せ、幕府軍に加わった。
その後、将軍・家茂が勝静を召し出し、幕府要職へ復職する
よう命じると、勝静は周囲の反対を押し切り、衰退する幕府
を見過ごすわけにはいかないと述べ、幕府と共に倒れんと
決意を固め、難局続きの幕政に身を投じていく。
悲壮の決意を固めた勝静は、その覚悟に見合う幕府要職、
老中首座となり、名実共に幕府最高司令官となった。

1866年(慶応2年)、将軍・家茂が病没すると勝静は、幕政
の仕置きに苦慮し、知恵者・方谷に助言を求めた。
すると方谷は、第一に英明な一橋慶喜を将軍職に就け、
幕府の統制を図り、第二に長州藩を寛大に許し、国事への
参加を許すべしと述べた。
勝静は将軍職への画策は承知したが、長州藩への寛大
処分には難色を示した。しかし、方谷は何かと忠義心
ばかりをもって、死に急いでも仕方がないと諌め、時代の
流れに逆行しない政事を行うべきことを説いた。

鳥羽・伏見の戦い後、大坂城に集結する旧幕府軍は、さら
なる篭城戦にて決戦すべきという訴えを斥けた将軍・慶喜
とともに江戸へ脱出した。
朝敵となって、国内に争乱の火種を広げることは愚計と
判断する慶喜は、徹底恭順の意志を貫く覚悟を決めて、
江戸へと向かったのである。
勝静もこの時には、旧幕府の力量では時代の流れは変え
られないと断念していたらしく、素直に慶喜の意向に
従った。

江戸に戻り、慶喜は徹底恭順に徹し、旧幕府の全権は勝
海舟に一任された。これをもって、勝静は老中の職を辞任
し、家督を子の勝全に譲り、父子ともども日光山に隠遁した。

官軍が関東に進軍してくると勝静は恭順の意を表していた
が、元老中職に就いて手腕を発揮していた人物だけに
新政府は慎重となり、勝静を宇都宮に護送することにした。
しかし、旧幕府軍が宇都宮城を攻撃し、勝静父子を奪還
するとそのまま、会津藩へと勝静父子を伴って入った。

その後、勝静は仙台藩へ入り、ついで北海道の箱館へと
落ち延びていった。箱館戦争が終結すると勝静は1869年
(明治2年)4月に東京へと戻り、新政府に降伏した。
争乱は去っていたため、勝静父子は、死一等を免れ、支藩
である安中藩に”永預”※終身禁固の処分となった。

1877年(明治10年)になって、勝静は上野東照宮の祠官
(しかん)となり、余生を静かに送った。
1889年(明治22年)、67歳で没している。

次第に倒壊していく幕府の屋台骨を必死で支え続け、将軍
・慶喜の心中をよく理解し、幕政改革と緊迫する国事を
的確に判断し執り行っていった勝静の力量と人柄は、幕府
最後の時代にあって、幕臣の鑑ともいえる姿であった。
ただ、その逸材振りを混乱収拾だけにしか活かせず、
新時代の開拓には、用いられなかったことはまことに惜しい
ものといわざるを得ない。
ただ、山田方谷という逸材を重用し、藩政改革を成功させた
ことで、地方の近代化促進を成した成果は、勝静が後世に
誇れる功績であったことだろう。
その点では、勝静の逸材が黎明期の日本国内に与えた
好影響は少なからず大きなものであったと賞賛できるで
あろう。まさに英雄は時代好転に功を成す人物のことであり、
その意味で、勝静は幕臣の中でも数少ない幕末維新の
功労者の一人に列する大人物であった。